【平成昭和物語 半世紀前の渋谷を想う ~神泉・千羽~】ファミリーの街から若者の街、そして一坪2000万円の街へ 変貌し続ける街「渋谷」

健次さんとともに店を切り盛りする女将・酒井貞子さん
「僕は彼女を連れているもんだから、「踊っていい?」なんて許可を取ってから踊っていた(笑)。二人ともダンスに明るかったから、ダンスホールに行くのが好きだったんだよね」(健次さん)

 ダンスホールでは、マンボ、ドドンパ、ツイストなど、次々に異なるダンスの楽曲が流れていた。「ジルバぐらいまでだったら結構踊れる人がいるんだけど、タンゴの曲がかかるとなかなか踊れる人がいない。僕たちは踊ることができたから、スポットライトを独占しているような気分。今も昔も、新しい文化を追い求めるっていうのは変わらないよね」と健次さんが言うように、渋谷は昔から最先端の街であったことがうかがい知れる。

 しかし、貞子さんは「決して若者の街という雰囲気はなかった。ファミリーもいたし、大人が多いというイメージが強かった」と回想する。

「百軒店はその名の通り、小さくて雰囲気のある飲食店がたくさん並んでいたの。映画館も3~4つほどあって、幅広い層が楽しめる街だった。今も『名曲喫茶ライオン』は健在だけど、ライオンのような素敵な純喫茶がたくさんあったわ。道玄坂に行くと、専門店がたくさんあってね。呉服屋さん、団子屋さん、魚屋さん……何でも揃ったものよ」(貞子さん)

「飲み屋街も多かったよね。109からLABI渋谷がある一帯は「恋文横丁」と呼ばれた飲み屋街で、中央街とは違う雰囲気を持っていた。当時、中央街は安藤組(東興業)が仕切っていておっかなかったなぁ(笑)。特に、246沿いにある道玄坂上方面のお店は敷居が高くて、一見で入るのは無理だった。渋谷と言っても、いろんな人がいたんだよ」(健次さん)