青木真也「この試合は僕の物語の一つでしかない」
ドラマというか人間力が見えないといったこと?
「個性がなきゃ全く意味がないし、面白くもなんともない。何を見せたいのか、というものがないと “お前、なにやりたいの? 何見せたいの?”ってなっちゃいません?」
日本の格闘家にとって見せたいものというのは「強さ」ということなのでは?
「はい。でも“だったら別にオリンピックやってろよ”って思わないですか(笑)。“そう思っているんだったら好きにしろよ”って思っちゃう」
それは青木選手が強いから言えることなんじゃないかとも思うんですが…。
「でも僕、負けてますしね」
負けてはいますが、強さが損なわれる負け方ではない。
「もちろん、強いということは最低限じゃないですか。でも最低限あればいい」
プロならその最低限のことを見せたうえで、プラス何を見せるかが大事。それができずにどこがプロなのかと?
「とにかく勝負にこだわるからこそ勝敗は越えられる。勘違いする奴は“勝敗を越える試合”っていうんだけど、勝敗を越えようとして越えたものに価値なんて全くないですよ。勝敗を越えるというのは、勝敗にこだわるから勝敗を越えるんです。勝敗に徹底的にこだわるから勝敗を越えるんであって、最初から“勝敗を越えます”なんて言ってるのは茶番ですからね」
その考えは?
「いつからという意識はないですけど、自分の経験則ですよね」
勝つことによってついてくるものもある。それはお金であったり名誉であったり。
「チャンピオンになってタイトル戦をやったとしても、それはちょっと小銭を稼ぐだけ。ファイトマネーってファイトマネーでしかない。別にそこで自分に価値とか厚みといったものが付くわけではない。となると“ファイトマネーをもらったから何?”って思っちゃう」
ファイトマネーは現在の青木真也の試合に対する対価であって、青木真也という人間自身の価値を表すわけではない?
「ファイトマネーがいくらということよりも、それ以上に自分に価値がつくことをしたいなって思っています」
では今回のエドゥアルド・フォラヤンとのタイトル戦に関しても、そんなに強い意識はない?
「別にベルトが欲しくてやってないですから」
では今回のタイトル戦は青木真也にとってどういう意味がある?
「ないんじゃないですか?」
位置づけは?
「僕の物語の一つです」
ではどういう物語を?
「僕は格闘技の選手を特別な仕事とは思っていないんです。だから今35歳なんですが、試合やそれ以外のところでも同世代で働く人たちが抱えている悩みだったり戦っているものと同じようなものが出るはず。僕が見せたいのは結局そういうこと。自分の前に立ちふさがるものといかに戦っていくか、みたいな多くの人が抱え込んでいるものを格闘技を通じて見せたいということです」
確かに同世代のサラリーマンも日々いろいろ戦っています。
「この業界だって訳分かんない既得権に座っている奴がいっぱいいるじゃないですか。そういう奴は席を空けろと思うし、もうどんどん若い人たちが上がってきたほうがいいと思うし、力もあると思う。実際、僕はそういうものと戦っているつもりなので、そういったものを見せられたらいいかなと思いますよね」
本の中でも若者に対する期待といったことがいくつか語られている。ただ格闘技メディアは一度縮小した影響もあってか、なかなか若い編集者や記者が入りにくい状況になってもいる。
「若い人が来ないですね」
そもそも媒体の数も減りましたから。伝える側が弱くなると、ジャンルが強くてもなかなか世間には伝わらない。
「まさにそう。でも僕、あんまりあてにしてないんですよ。そもそも格闘技メディアって存在していない。それは相撲とか他のスポーツもそうなんですけど、格闘技メディアってメディアとして機能していないですよね? 自分の意見を言わないもん。相撲のメディアと一緒ですよね」
どうしてこうなっているかはよく分からない。
「それは原稿チェックと取材拒否が原因じゃないですか。それが団体とメディアのバランスを完全に崩したんだと思っています。取材拒否というものがあると、書きたいものが書けないじゃないですか。それが年々引き継がれて、できたのが今だと思うんですよね」
そういうものを打破できるのは若い世代だろうと?
「別に“みんな好きなこと言えよ”と思っちゃう。それは選手もメディアもです。なんか“いちいち気にすんなよ”って思うし。みんなが同じ方向を向くなんてことはないと思うんです。個々それぞれに好き嫌いがあって良くないですか?」
でも今は世間でも言いたいことを言う人は少ないかも。
「固いですよね。格闘技に関わらずなんですけど、表現することに善悪とか持ち込むじゃないですか。それはホントにつまんねえなって思っています、個人的には。もちろん政治とか差別とかはNGだと思いますよ」
「個性がなきゃ全く意味がないし、面白くもなんともない。何を見せたいのか、というものがないと “お前、なにやりたいの? 何見せたいの?”ってなっちゃいません?」
日本の格闘家にとって見せたいものというのは「強さ」ということなのでは?
「はい。でも“だったら別にオリンピックやってろよ”って思わないですか(笑)。“そう思っているんだったら好きにしろよ”って思っちゃう」
それは青木選手が強いから言えることなんじゃないかとも思うんですが…。
「でも僕、負けてますしね」
負けてはいますが、強さが損なわれる負け方ではない。
「もちろん、強いということは最低限じゃないですか。でも最低限あればいい」
プロならその最低限のことを見せたうえで、プラス何を見せるかが大事。それができずにどこがプロなのかと?
「とにかく勝負にこだわるからこそ勝敗は越えられる。勘違いする奴は“勝敗を越える試合”っていうんだけど、勝敗を越えようとして越えたものに価値なんて全くないですよ。勝敗を越えるというのは、勝敗にこだわるから勝敗を越えるんです。勝敗に徹底的にこだわるから勝敗を越えるんであって、最初から“勝敗を越えます”なんて言ってるのは茶番ですからね」
その考えは?
「いつからという意識はないですけど、自分の経験則ですよね」
勝つことによってついてくるものもある。それはお金であったり名誉であったり。
「チャンピオンになってタイトル戦をやったとしても、それはちょっと小銭を稼ぐだけ。ファイトマネーってファイトマネーでしかない。別にそこで自分に価値とか厚みといったものが付くわけではない。となると“ファイトマネーをもらったから何?”って思っちゃう」
ファイトマネーは現在の青木真也の試合に対する対価であって、青木真也という人間自身の価値を表すわけではない?
「ファイトマネーがいくらということよりも、それ以上に自分に価値がつくことをしたいなって思っています」
では今回のエドゥアルド・フォラヤンとのタイトル戦に関しても、そんなに強い意識はない?
「別にベルトが欲しくてやってないですから」
では今回のタイトル戦は青木真也にとってどういう意味がある?
「ないんじゃないですか?」
位置づけは?
「僕の物語の一つです」
ではどういう物語を?
「僕は格闘技の選手を特別な仕事とは思っていないんです。だから今35歳なんですが、試合やそれ以外のところでも同世代で働く人たちが抱えている悩みだったり戦っているものと同じようなものが出るはず。僕が見せたいのは結局そういうこと。自分の前に立ちふさがるものといかに戦っていくか、みたいな多くの人が抱え込んでいるものを格闘技を通じて見せたいということです」
確かに同世代のサラリーマンも日々いろいろ戦っています。
「この業界だって訳分かんない既得権に座っている奴がいっぱいいるじゃないですか。そういう奴は席を空けろと思うし、もうどんどん若い人たちが上がってきたほうがいいと思うし、力もあると思う。実際、僕はそういうものと戦っているつもりなので、そういったものを見せられたらいいかなと思いますよね」
本の中でも若者に対する期待といったことがいくつか語られている。ただ格闘技メディアは一度縮小した影響もあってか、なかなか若い編集者や記者が入りにくい状況になってもいる。
「若い人が来ないですね」
そもそも媒体の数も減りましたから。伝える側が弱くなると、ジャンルが強くてもなかなか世間には伝わらない。
「まさにそう。でも僕、あんまりあてにしてないんですよ。そもそも格闘技メディアって存在していない。それは相撲とか他のスポーツもそうなんですけど、格闘技メディアってメディアとして機能していないですよね? 自分の意見を言わないもん。相撲のメディアと一緒ですよね」
どうしてこうなっているかはよく分からない。
「それは原稿チェックと取材拒否が原因じゃないですか。それが団体とメディアのバランスを完全に崩したんだと思っています。取材拒否というものがあると、書きたいものが書けないじゃないですか。それが年々引き継がれて、できたのが今だと思うんですよね」
そういうものを打破できるのは若い世代だろうと?
「別に“みんな好きなこと言えよ”と思っちゃう。それは選手もメディアもです。なんか“いちいち気にすんなよ”って思うし。みんなが同じ方向を向くなんてことはないと思うんです。個々それぞれに好き嫌いがあって良くないですか?」
でも今は世間でも言いたいことを言う人は少ないかも。
「固いですよね。格闘技に関わらずなんですけど、表現することに善悪とか持ち込むじゃないですか。それはホントにつまんねえなって思っています、個人的には。もちろん政治とか差別とかはNGだと思いますよ」