【徳井健太の菩薩目線】第46回 品とは犠牲の心。自分のことしか考えられない人間は品がない
品ってとても大事だよね。そもそも品とは何か――俺の考え方としては、犠牲心だと思っている。自分が犠牲になれるか否か……言い換えれば、自分のこと以外も考えられるか否かが、品のある、なしに大きく関与していると思う。例えば、玄関で靴をそろえて入室する。人様の住居に上がるわけだから、他者のことも考えたほうが良いに決まっている。靴を揃える。そんなささいな行為にも、品は宿ると思うんだ。
俺は、品ってものは先天的に養われるものだと思っていた。幼いころから親に愛情を注がれてきた人間だけが備えることが可能な感性だろうって。だから、品のある人を見ると、「この人は親から愛情を受けて育ったんだな」と感じてしまう。逆に、品がない人を見ると、「親とは疎遠なんだろうな」と邪推してしまう。
ご飯を最後の一粒まできちんと食べる、落ちているゴミを拾う。こういった行為は、どこか教育のたまものだと思うんだ。サラダを取り分けるといったことは、あくまで配慮の範疇であるわけで、まったく別物に感じる。その人の根っこにあるものがにじみ出るのが、品が良い、品が悪いという世界だと思う。
親からまったく愛情を受けて育ってはいない俺は、下品のかたまりだと自負している。それゆえ、最期まで品を手に入れることはできないと思っていたし、品というものを意識することもなかった。ところが、35歳くらいから小藪(千豊)さんや千鳥さんなどと仕事でご一緒するようになって、いかに品が大事かを思い知る。小藪さんも千鳥さんも品が高く、犠牲になることをいとわない人たちだった。自分のことだけを考えるのが、いかに愚かなことなのかということを、品というフィルターを通じて理解できるようになった。先天的なものとして、品の存在を諦めていた俺にとって、後天的に培われていく品もあるんじゃないのか……そんなことを思えるようになってきたんだよね。
後天的に品が宿っていくのだとしたら、裏を返せば品は劣化していくものでもあるはず。どれだけ品の良かった人間も、自分のことしか考えないような品の悪い奴らと付き合っていけば、おのずと品は落ちていく。皆さんの周りにもいないだろうか。「あいつ、もうちょっと上品だったと思うんだけど、最近やたらと雑だな」なんて思えてしまう人。 自分だけが気持ち良ければいい、自分が好きなことしかしたくない――そんな人と付き合うのって、ものすごくリスキーな事だとつくづく思う。
インターネットの世界でも、自分が楽しい、面白いと感じたら何をやってもいいって人がいるよね。人の発言をリツイートしてばら撒いて観察するなんてのは、信じられないくらい品がない行為だよ。
品を養っていくには、当たり前のことを当たり前にやるしかない。食べ物を残さない、洗濯ものをたたむ、という具合に、当たり前のことをできるか否かが大切だと思う。お金を支払っているんだからご飯を残しても問題はないだろう。一人暮らしなんだから洗濯ものを片付けなくても支障はないだろう。でも、それって究極的に自分のことしか考えていない言動だよね。一生懸命育てられ収穫されたお米を一粒一粒丁寧に食べるという行為、よく考えるととても品の高い行為って思えないだろうか。
品に見捨てられないためにも、上品な人を見つけた方がいいよ。そもそも下品な人って、プライベートになればなるほど人の話を聞かない。挙句、自分が楽しければいいからグラスが空いているのに、注文を頼まなかったりする。金払いも悪くなるわけだ。お店に来て金払いが悪い人って、「ケチだな」「お金がないんだな」と思われている以上に、「品がない」と思われていることを自覚したほうがいい。致命傷だよ。
不思議なもので、金持ちってやっぱり品が高い人が多い。もともとは派手な格好に身を包んで、下品な車に乗っていた、なんて人も少なくない。成り上がりは、その典型だ。ところが、本当の金持ちと接していくうちに、成り上がりの品ではどうにもならない品位の差を痛感するんだと思う。そして、本当の品を手に入れるために、自分を磨いていくんだろうね。後天的に、品は磨けるんだ。品を高くすると、自分の世界も広がっていく。自分のことしか考えない人間と、犠牲心のある他者のことを考えられる人間。どちらの世界が広いかなんて、答えるまでもないよね。
上品って、人の意見をきちんと聞けることでもある。自制心や犠牲心があるからこそ、他者の気持ちをピックアップする力も備わる。ささいなことに気が付く。ささいなことに気が付けないなら、自分の品を疑った方がいい。
俺は、品ってものは先天的に養われるものだと思っていた。幼いころから親に愛情を注がれてきた人間だけが備えることが可能な感性だろうって。だから、品のある人を見ると、「この人は親から愛情を受けて育ったんだな」と感じてしまう。逆に、品がない人を見ると、「親とは疎遠なんだろうな」と邪推してしまう。
ご飯を最後の一粒まできちんと食べる、落ちているゴミを拾う。こういった行為は、どこか教育のたまものだと思うんだ。サラダを取り分けるといったことは、あくまで配慮の範疇であるわけで、まったく別物に感じる。その人の根っこにあるものがにじみ出るのが、品が良い、品が悪いという世界だと思う。
親からまったく愛情を受けて育ってはいない俺は、下品のかたまりだと自負している。それゆえ、最期まで品を手に入れることはできないと思っていたし、品というものを意識することもなかった。ところが、35歳くらいから小藪(千豊)さんや千鳥さんなどと仕事でご一緒するようになって、いかに品が大事かを思い知る。小藪さんも千鳥さんも品が高く、犠牲になることをいとわない人たちだった。自分のことだけを考えるのが、いかに愚かなことなのかということを、品というフィルターを通じて理解できるようになった。先天的なものとして、品の存在を諦めていた俺にとって、後天的に培われていく品もあるんじゃないのか……そんなことを思えるようになってきたんだよね。
後天的に品が宿っていくのだとしたら、裏を返せば品は劣化していくものでもあるはず。どれだけ品の良かった人間も、自分のことしか考えないような品の悪い奴らと付き合っていけば、おのずと品は落ちていく。皆さんの周りにもいないだろうか。「あいつ、もうちょっと上品だったと思うんだけど、最近やたらと雑だな」なんて思えてしまう人。 自分だけが気持ち良ければいい、自分が好きなことしかしたくない――そんな人と付き合うのって、ものすごくリスキーな事だとつくづく思う。
インターネットの世界でも、自分が楽しい、面白いと感じたら何をやってもいいって人がいるよね。人の発言をリツイートしてばら撒いて観察するなんてのは、信じられないくらい品がない行為だよ。
金払いが悪いんじゃない、品がないんだよ
品を養っていくには、当たり前のことを当たり前にやるしかない。食べ物を残さない、洗濯ものをたたむ、という具合に、当たり前のことをできるか否かが大切だと思う。お金を支払っているんだからご飯を残しても問題はないだろう。一人暮らしなんだから洗濯ものを片付けなくても支障はないだろう。でも、それって究極的に自分のことしか考えていない言動だよね。一生懸命育てられ収穫されたお米を一粒一粒丁寧に食べるという行為、よく考えるととても品の高い行為って思えないだろうか。
品に見捨てられないためにも、上品な人を見つけた方がいいよ。そもそも下品な人って、プライベートになればなるほど人の話を聞かない。挙句、自分が楽しければいいからグラスが空いているのに、注文を頼まなかったりする。金払いも悪くなるわけだ。お店に来て金払いが悪い人って、「ケチだな」「お金がないんだな」と思われている以上に、「品がない」と思われていることを自覚したほうがいい。致命傷だよ。
不思議なもので、金持ちってやっぱり品が高い人が多い。もともとは派手な格好に身を包んで、下品な車に乗っていた、なんて人も少なくない。成り上がりは、その典型だ。ところが、本当の金持ちと接していくうちに、成り上がりの品ではどうにもならない品位の差を痛感するんだと思う。そして、本当の品を手に入れるために、自分を磨いていくんだろうね。後天的に、品は磨けるんだ。品を高くすると、自分の世界も広がっていく。自分のことしか考えない人間と、犠牲心のある他者のことを考えられる人間。どちらの世界が広いかなんて、答えるまでもないよね。
上品って、人の意見をきちんと聞けることでもある。自制心や犠牲心があるからこそ、他者の気持ちをピックアップする力も備わる。ささいなことに気が付く。ささいなことに気が付けないなら、自分の品を疑った方がいい。
※【徳井健太の菩薩目線】は、毎月10日、20日、30日更新です
◆プロフィル……とくい・けんた 1980年北海道生まれ。2000年、東京NSC5期生同期・吉村崇と平成ノブシコブシを結成。感情の起伏が少なく、理解不能な言動が多いことから“サイコ”の異名を持つが、既婚者で2児の父でもある。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。公式ツイッター:https://twitter.com/nagomigozen