【インタビュー】長谷川博己、大河ドラマ『麒麟がくる』で“新しい”明智光秀を生きる。
この“……”の多さは、光秀が「選択を強いられることが多い」ことに由来するという。
「光秀は選択を強いられることが多いんです。彼が土岐源氏の流れだと考えれば選択するのはこちらだと思っていても、歴史の流れでは矛盾していることもある。そのときにまた“……”です。どんな感情だったのだろうかと池端先生にお聞きしたことがあるんですが、たぶんその選択をした時は五分五分、どっちの可能性もあったんだろう、と。光秀も瞬発的に決めている可能性があるとおっしゃっていて……。ただ、(埋めることは)難しいですが面白くもなってきています。例えば、道三とのシーンで、(道三を演じる)本木(雅弘)さんを見て、私も表現を変えてみようとか。現場での感覚を大事にして、瞬発力で決めるようにしています」
これまでにもいろいろな時代でさまざまな人物を演じ、その姿から、多くの視聴者がその時代やその時代に生きている人たちの息遣いを感じてきた。『麒麟がくる』にもまた、それを期待してしまう。
「写真もないですし、いろんなことで嘘もつける。甲冑であるとか、そういう動きはしなかったとかというのもありますが、それらをどう乗り越えて説得力があるようにできるかが楽しいです。『国盗り物語』、『黄金の日日』も好きなので見直したりと、参考にしたものもあります。でもそれはそれで別の作品。振り回されたくないなというのもあるんです。何か同時代性みたいなものを見つけたいというのがあるなかで、少し気楽に見られるところも欲しいですし、バランスを考えながら演じています」
明智光秀を突き詰める一方で、主演として、そして座長としても、役割を課されている。
「主演として、座長として、全体をちゃんと見通しておかないといけないということを感じています。でも私は座長らしいことはできないんですよね……。基本的には役に入り込みたいというか、それ以外のことは考えたくないんです(笑)。改めて、主演というのは重いポジションだな、と思います。助演はある程度自由にやれる部分もあると思うんですけど、主演はいろんなボールをもらってまた次に渡していくということを、流れるようにやらなければいけないと感じています。……でもまあ、主役から見える景色というのは、なかなか気分がいいものですね(笑)」