時間という自信【SOD女子社員・負け犬女の働き方改革】#6
2018年浅草サンバカーニバルにて、「ハイーニャ・ダ・バテリア(バテリアの女王)」としてパレードしたときの写真。私です。
このように、GIRL’S CHから部署を異動して、またGIRL’S CHへ戻ってきて、2017年は自分にとっては大きな転換期となる時期だった。
奇しくもこの年は、新卒入社から10年が経過した時期でもあった。
この年、私は長めの休暇をとり、ブラジル旅行に行った。(ちょうど前回のコラム冒頭で書いた、友達と約束したという旅行である)
私が仕事以外に唯一熱中していること、それはダンスだ。
大学のときにレゲエダンスと出会い、社会人になってからはサンバを始めた。
特にサンバは2010年から毎年浅草サンバカーニバルに出ていて、所属チームの中心メンバーとしてパレード演出を仕切ったり、チームのNo.1ダンサーともいえる「ハイーニャ・ダ・バテリア」というポジションでパレードをしたりと、それなりのキャリアを積んでいる。(手前味噌ではありますが…)
だからブラジル旅行も、一緒にサンバをやっている仲間たちと、本場にリオのカーニバルを見に行きたいという思いから出かけた。
会場の熱気、生演奏の音圧、巨大な山車、そしてリオ市街の空気感、映像で見ただけでは感じることができない生のブラジルに圧倒された。
帰ってきてもリオに恋い焦がれる日々が続き、なんと翌年もリオに行ってしまった。
2回目のリオはカーニバルが終わったあとの時期に訪れ、10日間サンバのレッスンを受けた。
あの頃は、自分が今いる場所と夢見た場所は地続きで、努力を続けていればいつか必ずたどり着けるものだと思っていた。
2019年、それまで所属していたサンバチームを正式に辞めた。
ちょうど、仕事でも自分のために働きたいと考えていた時期で、チームのために、踊りたい気持ちを抑えて演出や運営をやることに心をすり減らしていたからだ。
私は踊りが踊りたくて、踊りだけができれば十分なのだ、もっと自分のやりたいことに忠実に生きたい、と思った。
ただ、ちょうどサンバを始めて10年目の年だったので、浅草サンバカーニバルには出たい。
そこで私は、自分がアクセスしうるサンバチームの練習に片っ端から参加した。
自分の好みの音を奏でるチームはどこか、自分のやりたいパレードと価値観が近いチームはあるのか、いろんなチームを見て、結果その年に準優勝するチームに参加することに決めた。
それまで所属していたチームは、お世辞にも強いチームとは言えなかったが、その準優勝チームははっきり言って強い。
浅草サンバカーニバル優勝経験もあり、ブラジルの老舗チームとのパイプもある。
そんなチームにいる人たちはきっとサンバ好きばかりなのだろうと思っていたが、実際にはそういうわけでもなかった。
20年、30年とサンバをやっている大先輩も多かったが、初めて参加する人、夏だけ参加する人、始めて2~3年の人などいろいろな人がいた。考えてみればそれは当然で、大所帯であるほど、様々なスタンスの人を受け入れる懐の深さが必要になってくるからだ。
それまでにいたチームは小規模だったので、全員が同じ熱量で同じ方向を向くという方法しか知らず、私にとっては新鮮だった。
さらに驚いたことに、そのチームに放り込まれると私は「ベテラン」「経験者」として大事に扱われたのだ。
仕事でも新卒入社で今の会社しかしらないし、サンバチームもずっと同じところにいたので、チーム歴の長さ=偉い、という勝手な価値観が私の中に出来上がっていたが、世の中というのはそうではなかった。
実際に自分のまわりを見ても、同じ年代で10年もサンバを続けている人は多くない。
自分より歴は浅いがすぐに辞めてしまうような人のほうがよっぽど多い。
自分はそれまで、「転職する勇気もない臆病者」「外の世界へ出ない愚か者」「フットワークの軽さがない頑固者」と自分のことを否定的に見てきた。
だが、何事も10年続けるのは、並大抵のことではない。
サンバもアダルトの仕事も、10年以上続けているという人は、本当に一握りだ。
長く続けるということは、誰にでもできることではない。
そして、長く続けられるということに気付けるのは、文字通り長く続けたあとでしかない。
10年という年月が、ようやく私にそのことを教えてくれたのだった。
そして10年も続けることができているという自信が私に、もっと自由に生きろというメッセージを投げかけてきているように感じたのもこの頃だった。
奇しくもこの年は、新卒入社から10年が経過した時期でもあった。
この年、私は長めの休暇をとり、ブラジル旅行に行った。(ちょうど前回のコラム冒頭で書いた、友達と約束したという旅行である)
私が仕事以外に唯一熱中していること、それはダンスだ。
大学のときにレゲエダンスと出会い、社会人になってからはサンバを始めた。
特にサンバは2010年から毎年浅草サンバカーニバルに出ていて、所属チームの中心メンバーとしてパレード演出を仕切ったり、チームのNo.1ダンサーともいえる「ハイーニャ・ダ・バテリア」というポジションでパレードをしたりと、それなりのキャリアを積んでいる。(手前味噌ではありますが…)
だからブラジル旅行も、一緒にサンバをやっている仲間たちと、本場にリオのカーニバルを見に行きたいという思いから出かけた。
会場の熱気、生演奏の音圧、巨大な山車、そしてリオ市街の空気感、映像で見ただけでは感じることができない生のブラジルに圧倒された。
帰ってきてもリオに恋い焦がれる日々が続き、なんと翌年もリオに行ってしまった。
2回目のリオはカーニバルが終わったあとの時期に訪れ、10日間サンバのレッスンを受けた。
あの頃は、自分が今いる場所と夢見た場所は地続きで、努力を続けていればいつか必ずたどり着けるものだと思っていた。
2019年、それまで所属していたサンバチームを正式に辞めた。
ちょうど、仕事でも自分のために働きたいと考えていた時期で、チームのために、踊りたい気持ちを抑えて演出や運営をやることに心をすり減らしていたからだ。
私は踊りが踊りたくて、踊りだけができれば十分なのだ、もっと自分のやりたいことに忠実に生きたい、と思った。
ただ、ちょうどサンバを始めて10年目の年だったので、浅草サンバカーニバルには出たい。
そこで私は、自分がアクセスしうるサンバチームの練習に片っ端から参加した。
自分の好みの音を奏でるチームはどこか、自分のやりたいパレードと価値観が近いチームはあるのか、いろんなチームを見て、結果その年に準優勝するチームに参加することに決めた。
それまで所属していたチームは、お世辞にも強いチームとは言えなかったが、その準優勝チームははっきり言って強い。
浅草サンバカーニバル優勝経験もあり、ブラジルの老舗チームとのパイプもある。
そんなチームにいる人たちはきっとサンバ好きばかりなのだろうと思っていたが、実際にはそういうわけでもなかった。
20年、30年とサンバをやっている大先輩も多かったが、初めて参加する人、夏だけ参加する人、始めて2~3年の人などいろいろな人がいた。考えてみればそれは当然で、大所帯であるほど、様々なスタンスの人を受け入れる懐の深さが必要になってくるからだ。
それまでにいたチームは小規模だったので、全員が同じ熱量で同じ方向を向くという方法しか知らず、私にとっては新鮮だった。
さらに驚いたことに、そのチームに放り込まれると私は「ベテラン」「経験者」として大事に扱われたのだ。
仕事でも新卒入社で今の会社しかしらないし、サンバチームもずっと同じところにいたので、チーム歴の長さ=偉い、という勝手な価値観が私の中に出来上がっていたが、世の中というのはそうではなかった。
実際に自分のまわりを見ても、同じ年代で10年もサンバを続けている人は多くない。
自分より歴は浅いがすぐに辞めてしまうような人のほうがよっぽど多い。
自分はそれまで、「転職する勇気もない臆病者」「外の世界へ出ない愚か者」「フットワークの軽さがない頑固者」と自分のことを否定的に見てきた。
だが、何事も10年続けるのは、並大抵のことではない。
サンバもアダルトの仕事も、10年以上続けているという人は、本当に一握りだ。
長く続けるということは、誰にでもできることではない。
そして、長く続けられるということに気付けるのは、文字通り長く続けたあとでしかない。
10年という年月が、ようやく私にそのことを教えてくれたのだった。
そして10年も続けることができているという自信が私に、もっと自由に生きろというメッセージを投げかけてきているように感じたのもこの頃だった。
田口桃子(たぐち・ももこ)
GIRL’S CHプロデューサー。2007年、新卒でソフト・オン・デマンド(株)に入社。
営業、マーケティング等の部署を経て、2012年よりGIRL’S CHの立ち上げに携わる。
以来現在まで、GIRL’S CHの現場リーダーとしてサイト運営をしつつ、オリジナル動画ではレポーター出演等をすることも。
GIRL’S CHプロデューサー。2007年、新卒でソフト・オン・デマンド(株)に入社。
営業、マーケティング等の部署を経て、2012年よりGIRL’S CHの立ち上げに携わる。
以来現在まで、GIRL’S CHの現場リーダーとしてサイト運営をしつつ、オリジナル動画ではレポーター出演等をすることも。