【徳井健太の菩薩目線】第56回 生きるって誰かの死で成り立っている。うまいエキスになれるように生きよう!



とりわけて、生への執着心がない。死ぬのは嫌だけど、死ぬのが怖いとはあまり思わないんだ。まぁ、いざ死を目の前にすると発狂するのかもしれないけど。

俺は、「生きなくていい」って気持ちが前提にある。そのことに気が付いたのは、まだ5~6年目の若手だったときだ。

当時の吉本本社へ行くと、世間的にはあまり認知されていないものの、若手からすればそれなりにキャリアを積んでいる30代後半の先輩芸人が、吉本の社員に懇願していた。

「最近仕事がないんですよ~。子どもが生まれたんで営業を入れてください~。飯食わせたいからお願いしますよォ」。

それを見て、俺は「なんてことだろう」と思った。

誰しも自分が若手だったとき、「オレはメシを食うためにお笑いなんてやっているわけじゃない」と思っていたはずなのに、いざ自分が歳を取ると、あのときの青い思いはどこに行ってしまったのだろうかと苦悶する。いつ消えてしまったんだろうね、と自問する。

必死になって生きることは美しいことだと思う。だがしかし、あのとき偉そうに放言していたあの姿は何だったんだろうって、家族を理由に席にしがみつく独りよがりに違和感を覚えたんだ。芸人の世界は、後ろがつかえている。空いたイスは、本当であれば才能のある若手が座るべきだろう。家族のためを思うなら心機一転、他のことをするという選択肢もある。自分の生活のために、コネクションを最大限利用して、座るべき人を追い出してまでお笑いを続けているのだとしたら、もう笑えない。俺は、自分がそういう状況になったら「やめよう」と、そのとき思った。

誰かが俺のことを思って、仕事を提案してくれるのであれば、こんなに嬉しいことはない。一方で、俺である必要がなく、(誰でもいいのに)気を使って俺に声を掛けてくれたのだとしたら、「才能のある若手に声をかけてあげてください」と、スタッフさんにも伝えている。死んだら死んだで、そのときだよ。

ところが、俺は運良く生き延びている。でもそれって、“運よく”なのかな。本当にそうだろうか? と思う。俺が運よく生き延びているバックヤードでは、たくさんの死が横たわっている。芸人として芽が出なかった数多の死が、まるで栄養素になって、花を咲かせているのかもしれない。「桜の樹の下には屍体が埋まっている」とは、よく言ったもんだよ。


パニックになってしまう人は、生きているという感覚が薄いからなのでは



誰かが死んでいるから、誰かが生きている。誰かの屍があるからアップデートされていく。その屍を見て、人は改善方法や対応策を覚える――、歴史ってその積み重ねでもあると思うんだよね。人間の歴史って、そういうもんなんじゃないのかなと思う。だから、俺が死んだとしてもきっと誰かのエキスにつながっていると思うから、俺はあんまり生に執着しない。どうせだったら、たっぷり旨味のあるエキスになりたいから、なるべく懸命に生きれればとも思っている。「生きたい」にはあまり興味はないけど、「生きる」ことには懸命でいたいというか。

いざというとき、自分だけ「生きたい」とパニックになってしまう人って、常時、生きているという感覚が薄いからなのでは、と思ってしまう。比較的、生きていることを考えている人であれば、生きるか死ぬかの線引きくらい、そんなに難しくないと思うんだよね。税金で作られた道路を車で走行しているにもかかわらず、「税金は払いたくない」と言われても困るじゃない。生きている以上、ずっと走りっぱなしなわけ。きちんと走っている人ほど、状況や景色を見ているでしょ? 慌てふためくって、きちんとハンドルを握っていないんだよ。

何かに踊らされて、突然、貪欲になるのも人間らしいと思う反面、踊らされて貪欲になるくらいだったら、日ごろからむき出しにしていればいいのにね。これって芸人やタレントにも言えることだと思うんだけど、大きな舞台のときだけ「爪痕を残そう」と思うから、泥沼にはまる。小さなステージでも、「生きる」、「死ぬ」を考えることは、とても大事だと思う。

例えば、本田圭佑選手の「僕はすべての試合をワールドカップの決勝だと思って戦ってます」といった類のコメント。彼のパーソナリティーが好きか嫌いかは置いておいて、そのメンタルって大切だよ。常に考えているから、そういった言葉が出てくる。大きな舞台や想定外の状況でしか考えられないような人は、小さな舞台で考える癖がないから、“いざ”というときにパニックになる。考えるのは自由だからね。立場やお金は関係なくて気持ちの問題だと思うから、自分が狭い世界に生きていたとしても、日々をしっかり考えて生きてほしいなぁ。

まぁ、どんどん歳を重ねて、死が迫ってくれば、やはり俺も死ぬのが怖くなるのかもしれない。よく聞くじゃない。「いつ死んでもいい」みたいな自由な人でも、死ぬ間際になると「生きたい」という気持ちが爆発するって。何がそうさせるんだろう。いろいろと考えなくなってしまう悟りの境地=「ま、いっか」の連続だとしたら、気が付いたときのリアル感は、すさまじいのかもしれない。だとすれば、悟りの境地に達しても、「生きる」ことはいつまでも考えていたい。日々を生きていれば、そう簡単には死なないよ。

※【徳井健太の菩薩目線】は、毎月10日、20日、30日更新です
◆プロフィル……とくい・けんた 1980年北海道生まれ。2000年、東京NSC5期生同期・吉村崇と平成ノブシコブシを結成。感情の起伏が少なく、理解不能な言動が多いことから“サイコ”の異名を持つが、既婚者で2児の父でもある。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。公式ツイッター:https://twitter.com/nagomigozenz
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