車いすテニスプレイヤーであり、大工だった私が見つめる、東京のバリアフリー【二條実穂】
海外の経験
設備などのハード面だけではなく、人々の意識などソフト面に目を向けることも大切だと二條さんは語る。それはプレイヤーとして海外遠征に出向いた時の「温かな経験」からだった。
「海外ではこちらから聞くよりも先に“エレベーターはこっちにあるよ”“迷っていない?”と声掛けをしてもらえる印象があります。それも“困ってそうに見えたから”というよりは、もっとフラットに話しかけてくれている気がします。例えば英語圏などでは、目が合っただけでもニコッと笑顔になる習慣があったりと、文化の違いもあると思いますが、そこに障がいの有無は関係なく、まず人と人とのコミュニケーションがあって、そこから“何か手伝おうか?”と言ってくれます。日本でも設備だけではなく、ソフト面、心のバリアフリーがもっと広がっていってほしいなと思います」
そうした思いから、二條さんは現在学校への講演にも積極的に出向いている。子供たちに伝えたいことがあるのだと、笑顔を浮かべる。
「小学校に講演に行ったときに、子供たちが“街で車いすの人を見かけたら何をしたら良いですか?”と聞いてくれた事があったんです。私は“もしみんなの周りの友達が何か困っていたら「どうしたの?」「何かあったの?」って聞くよね、それと同じでいいんだよ“と答えました。障害があるからこうしなきゃいけないではなくて、純粋なコミュニケーションが大切だということを伝えていきたいです」
「みんなで楽しむ」という視点
パラリンピックという言葉が浸透し、競技性も向上する中、二條さんが大切にしているのは「誰もが楽しめるパラスポーツの普及」だ。
「障害を持っている方の中には、競技を見てチャレンジする前に “自分にはできない”と諦めてしまうという声を耳にしたことがあります。そのことがきっかけで、私はパラスポーツは障がいの度合いに関係なく、“誰もが楽しめる”という点も大事なのではと気づきました。私が講師として参加している車いすテニス教室で、時にボールの代わりに風船を使うなどの工夫をし、誰もが楽しめるパラスポーツを心掛けています。こうした活動も今後パラスポーツが成長するために必要なのではと考えています」
パラリンピックや街のバリアフリーについて改めて考えたのは、誰もが楽しめる場づくりや心のバリアフリーの必要性だった。二條さんがそうした活動を続ける原動力は「恩返し」なのだという。
「大好きでずっと続けていきたいと思っていた大工という仕事を怪我をして続けられなくなってしまった現実にぶつかったとき、車いすテニスとの出会いがあったことで、私は前を向き続けることができました。私に夢と勇気を与え続けてくれた車いすテニスやパラスポーツを広めていく活動の中で、誰かが前を向くきっかけを作る事ができればうれしいです」
(TOKYO HEADLINE・丸山裕理)
1980年生まれ、北海道出身。大工として働いていた23歳の時に、建築現場の足場から落下し脊髄を損傷、車いす生活に。退院後すぐに始めた車いすテニスで徐々に活躍の場を広げ、数多くの世界大会に出場するプロのプレイヤーとして活動。2016年リオデジャネイロパラリンピックダブルス4位入賞。2019年5月に現役引退を発表。現在シグマクシスに所属し社員として勤務すると共に、障がい者スポーツの発展に貢献するための活動を行っている。東京都「東京2020パラリンピックの成功とバリアフリー推進に向けた懇談会」メンバー。