徳井健太の菩薩目線 第90回 私欲ではなく、誰かのためにするギャンブルは、どういうわけか当たることが多い
相変わらずギャンブルをしてしまう。勝てない。
ところが、ABEMAの番組に代表されるパブリックな場で行うギャンブルは、どういうわけか勝つことが多い。
昔、ある番組の企画で、手元のお金を100万円にするという企画があった。そのとき、俺は千鳥のノブさん、カンニング竹山さん、DAIGOさんに相談して、その意見を参考に馬券を購入した。番組でなければ、誰かにアドバイスを聞くなんてことはしない。普段とは異なる賭け方をした結果……見事に的中。お金は、目標の100万円を超えた。自分のためではなく、誰か(何か)のために賭けた方が、運が良い方向に転ぶことを、このとき学んだ。
現在、たびたび担当するABEMAの番組では、俺が当てると視聴者へのプレゼントも増える仕組みになっている。番組はチームプレイで成り立っている。だからなのか、きれいごとではなく自分のために当てたいというよりも、見ている人に還元したいという気持ちが勝る。誰かのためにやっているギャンブルは、どういうわけか勝つことが多い。
第18回「勝負事は日常の自分と地続きでつながっている」で触れたように、なぜ自分はギャンブルに勝てないのか考えたことがある。
競馬やボートレースをするとき、俺は本命を中心にお金を投じていた。俺が芸能界で生き続けてこれたのは、本命を狙わなかったからなのに。なぜ、俺はギャンブルになると、自分の生き方を否定するかのように王道ばかり狙うのか……なぜ負けるのか分かった。そう頭では理解しているはずなのに、私欲のギャンブルは、やっぱり負け続ける。結局、自分のためにするギャンブルとなると、そんな教訓は吹き飛んでしまう。反面、誰かのためにすると、自然とそれを思い出し、物事を客観視する能力が一時的に開花するのかもしれない。
「分析芸」なんて評される。ありがたい限りだけど、俺自身はそんな高尚な感覚は持ち合わせていない。ただ、誰かの良さを伝えたいとか、知ってほしいという気持ちがあるだけ。自分がウケたいがために自ら笑いを取りにいってスベりまくっていた=自分のためのギャンブルと考えると、なるほど上手くいかなかったわけだ。人のためのギャンブルもトークも、俺の意図しないところで良い方向に転んでくれる。
先日、中野のゲームセンターでメダルゲームをした。収録の合間に時間がポツンと空いてしまい、パチンコを打つのも疲れそうだったから、なんとなくゲームセンターに入ることにした。はっきり言って、俺はメダルゲームほど、この世にあるのがわからないゲームはないと思っている。お金ではない詳細不明のコインに一喜一憂することのバカバカしさ、子ども時代にギャンブルの魅力を教えてしまう不必要性、なぜメダルゲームが令和の時代にあり続けているのか、謎で仕方がない。
だが、俺が入店したゲームセンターの一角を占めていたメダルゲームエリアは、老若男女が嬉々として楽しむ一大娯楽空間と化していた。楽しそうにメダル落としゲームに興じる親子、一人で遊びに来ただろう30代と思しき女性、そして特にゲームをするわけでもなく、遊んでいるプレイヤーに意味不明の励ましの言葉をかけるハイテンション老男。久しぶりに見るメダルゲームは、よくわからない活気に包まれていて、「こういう日常も悪くないかも」なんて思いながら、メダルを投じた。
私欲を帯びていないメダルが吸い込まれるや、ものの数分で1000枚くらいのジャックポットを引き当ててしまった。派手な演出の光線に照らされる俺の顔。すると、励まし老男がキャッキャッと騒ぎ出し、「宝くじだったら前後賞を当てたな!」とエールを送ってくれた。それだけではない、メダルゲームを楽しんでる人たちが、7色に反射する俺に対して祝福のまなざしを向けている様子が伝わってきた。牧歌的とは違う、もっと多幸感に包まれているゲームセンターのメダルゲーム空間に、俺は先述した考えを撤回したくなった。この世にあるのがわからないゲームなのではなくて、こういうゲームもあるからこの世は成り立っているんだなと。
俺にとって不必要なゲームであることに変わりはない。だから、楽しそうに興じていた親子にバケツ一杯に貯まったメダルを渡した。子どもは大はしゃぎし、お母さんは「いいんですか!? ありがとうございます!」と頭を下げていた。いやいや、礼を言いたいのはこっちのほうなんです。やっぱり俺は自分のために何かを賭けることは控えた方がいいと、改めて認識することができたのだから。