お笑い芸人随一!カミナリ「日本人でも自然とラップって出るもんだな、と」切なくも爆笑の自作ラップ誕生エピソード

 現在、TOKYO MXで放送中の『激闘!ラップ甲子園への道』で番組MCを務めるカミナリの2人、竹内 まなぶと石田 たくみ。茨城県鉾田市で育った幼なじみ同士で、小学生時代からヒップホップを愛する2人の、ラップで彩られた爆笑青春秘話を直撃!

撮影・蔦野裕

常にラップとともにあった青春時代

 2人のラップとの出会いは、小学生時代。

竹内まなぶ(以下:まなぶ)「僕は小学校のころに姉から地元・茨城のグループ、LUNCH TIME SPEAXなどを教えてもらい、そこから聞くようになったんです」
石田たくみ(以下:たくみ)「いきなりアンダーグラウンドだな(笑)。僕は小学生当時は普通にテレビの音楽番組でRIP SLYMEやケツメイシを聞いて、こういう音楽好きだなと。ヒップホップという言葉もそこまで理解してなかったんですけど、いろいろ聞くようになっていたんです。あるとき、まなぶと話しているときにヒップホップが好きだと言ったんです。そしたら“オレが本物を教えてやるよ”って(笑)。そこからアングラ系の日本語ラップを知り、LUNCH TIME SPEAXやBUDDHA BRAND、NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDに出会い…。さらに、僕の兄もヒップホップ好きで“熊本には餓鬼レンジャーっていうのがいるよ、福島には鬼っていうのがいるよ”と、各地のラッパーの存在を教えてもらいまして。レペゼンという言葉の意味もそのとき知りました」

まなぶ「高校に行ったら、まわりにもヒップホップ好きの人がけっこういて、ファッションもどんどん寄っていきましたね。学校にレコードバッグで通ったりしてました」

たくみ「ターンテーブルを買ったの、高校のころだっけ。使いもしないのに親に買ってもらったんだよな」

まなぶ「部屋にただ置いて眺めてましたね。とりあえずレコードを手に入れようと思ったんだけど何を買えばいいから分からないから、ヒップホップ好きな友達に1000円を渡して“いま一番かっこいいと思うやつ買ってきて”と頼んだら、50セントの中でも一番イマイチなジャケのやつを買ってきた(笑)」

たくみ「ラップバトルというものがあることを知ったのも中学時代に『8 Mile』を見たのが最初だったと思います。体育の選択授業で柔道かダンスを選ぶんですけど、僕らはダンスを選んで、Steady&Co.の『春夏秋冬』とかエミネムの『ルーズ・ユアセルフ』をやったんです。学校で、ヒップホップ系のダンスをやってたのは僕らだけでしたね」

まなぶ「僕はけっこう勉強できて、それまで4か5しか取ったことなかったんですけど『ルーズ・ユアセルフ』を踊ったときに初めて3を取りました」

たくみ「なんでだよ、オレは5だったぞ(笑)」

 やがて2人はついにヒップホップグループを結成。

たくみ「高校のとき、まなぶが中心となって友人たちとヒップホップグループを作ったんです。その名前が“ドドメイシ”。まあ、ケツメイシから取ったんですけど(笑)。さらに、まなぶが全員にNITROのメンバーをもじったMCネームを付けていって。僕には“マッカチン(MACKA-CHIN)をもじって“タッカチン”、まなぶは“エックスビーエス(XBS)”をもじって“エックスブーエス”というぐあいに。メンバーの1人は、そのときまなぶがつけたNIBOという名前で今ラッパーとして活躍…はしてないけど(笑)活動しています」

 当時、まなぶから“ラッパー指南”を受けることも多々あったというたくみ。

たくみ「当時ラッパーというと坊主のイメージだったんですけど、僕は髪をちょっと伸ばしたり茶髪にしたりして、よくたくみから“毛先で遊ぶな!”と言われていました。服や靴も、マストでニューエラを被れとか、ナイキならエアフォース1だ、コルテッツ履くなとか」

まなぶ「ナイキのダンクやエアフォース1でも、たくみってちょっと外れた、ラッパーらしくないやつを履くんです。ニューバランスもなぜかマルチカラーのやつを履いたりしてたので、“まっすぐ”なやつ履けよとよく指摘していましたね」

たくみ「そう思うと、今は本当にいろいろなファッションのラッパーさんがいて、すごくいいですよね。まなぶ、オレに言ってたのと同じことを一人ひとりに言ってこいよ、とちょっと思いますけど(笑)」

まなぶ「…今は多様性の時代なのでね」

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