錦見映理子「発酵の仕組みは人間関係と同じ」恋愛小説『恋愛の発酵と腐敗について』で新境地
第34回太宰治賞受賞作『リトルガールズ』で小説家デビューした歌人の錦見映理子さん。受賞後第1作となる『恋愛の発酵と腐敗について』(小学館)は、上司との不倫を終えて小さな町で喫茶店を開いた万里絵、彼女の喫茶店にサンドイッチ用のパンを卸すパン職人の虎之介、そして喫茶店の常連客や虎之介の妻といった女たちが、パン生地のようにふくらんだりしぼんだり焼かれたりする恋愛群像劇だ。短歌から小説に表現の場を広げる錦見さんに話を聞いた。
※インタビューの中で『恋愛の発酵と腐敗について』の内容に触れている部分があります。
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“やっと小説という表現にたどり着いた”
短歌の世界で長いキャリアを持つ錦見さん。小説を書き始めたきっかけを「歌人として歌集を出したり散文や批評を書いたりする中で、だんだん“小説を書いてみたいな”という気持ちが強くなっていきました。雑誌『NHK短歌』でエッセイ(『めくるめく短歌たち』)を連載しながら書き始めたのですが、最初は全然うまく書けなくて試行錯誤していたんです」と振り返る。
「デビュー作の『リトルガールズ』は書いていて初めて手応えを感じた小説で、最初は100枚くらいで終わらせるつもりが、あっという間に300枚近くになって、300枚で応募できる新人賞はないかなと思って探したのが太宰治賞でした。紆余曲折を経て“やっと小説という表現にたどり着いた”という感じですね」
『恋愛の発酵と腐敗について』という印象的なタイトルは、小説の構想を練っている段階から頭にあったという。
「『リトルガールズ』では、“人を好きになるってどういうことなのか”という根源的なテーマを追求したのですが、今回はその先の物語をもう少し大人の登場人物で書いてみたいと思ったのが執筆のきっかけです。物語のヒントを探していた時に、『酵母から考えるパンづくり』という本に書かれていた発酵の仕組みがすごく面白くて。酵母菌にはいろいろな種類があって、菌同士が共存できる条件がいろいろあるのですが、読んでいるうちに人間関係と同じだなと思えてきたんです。
人と人との組み合わせもすごく微妙なもので、ある状態の時に出会うと付き合えるのに、違う年齢や精神状態で出会ったらうまくいかない。それでいろんな年齢や個性がまったく違う人たちを組み合わせて恋愛サバイバルが書けないかなと考えて“恋愛の発酵と腐敗”というテーマが浮かびました。パンを焼く工程では何度も生地を休ませながら発酵させるのですが、ダメージを受けるたびに休んではもう一度ふくらむところもどこか人間っぽいですよね」
主人公の万里絵が破れた恋を〈きらきらした美しい宝石のように思えた恋は、終わってみれば腐った汚泥のようなものになり果てていた〉と思い返すように、登場人物の心の声はかつて自分が体験した感情をなぞるようでとてもスリリングだ。
「この小説には何かに集中して周りが見えない人たちがたくさん登場します。万里絵は“自分のお店で一から頑張ろう”と生きるのに必死だし、夫を亡くした早苗さんは初めての恋にハマって何も見えない状態、パン職人の虎之介はパンを焼くことに夢中。こういう人を書いていくときっと面白いだろうなと思いました。
若い頃は恋愛で周りが見えなくなる経験があって、そもそも恋愛ってそういうものだと思うのですが、自分はもうその渦中にいないのでここまで書けたんだと思います。だから、恋愛の生々しい現場にいる人ほど読むのが辛いところもあるかもしれないけれど、客観的にその状況を見るとつい笑ってしまうかも。自分の何かは反映されているんでしょうけど、小説の登場人物は100%他人なので、割と客観的に“この人たち大丈夫かな、困ったな”と思いながら書いてました(笑)」