錦見映理子「発酵の仕組みは人間関係と同じ」恋愛小説『恋愛の発酵と腐敗について』で新境地
虎之介は一切女性を選ばない「理想の男」
女にだらしないけれど憎めない虎之介の登場によって、女たちの周辺はにわかに騒がしくなる。錦見さんは虎之介を「私としては理想の男だと思って書いています」ときっぱり。
「彼は誰とでも付き合っちゃう恋愛に対して主体性のない男。でも、望まれれば応えてくれて、潜在能力を最高に引き出してくれる。来る者は拒まないから結果大変な状況になっていくんですけど(笑)。必ずしも“一対一の関係が素晴らしい”という価値観のうえには立っていない男なので、一対一が当たり前の人には最悪、そうじゃない人は“こういう人がいたらいいな”と思うのかもしれないですね。
虎之助に対する読者の反応も“こういう人にハマる気持ちが分かる”という人と“信じられない、ドン引き”という人に二分されます。私自身の若い頃は恋愛で主体性を持つのは男性だと刷り込まれ、男性に選ばれることに価値があると考えていた時期もありますが、この小説は女性が選んでいく話にしたいと思って虎之介を一切選ばない男にしたんです」
万里絵と虎之介の間には、新メニューに使うパンのレシピを開発するうちに、あるハプニングが……。
「実は最初、万里絵はもう少しふわふわした女性でしたが、編集者の“もっと仕事に打ち込んでいたほうがいい”というアドバイスがしっくりきて、恋愛を封印して仕事に邁進しているキャラクターになったんです。だからこそ万里絵と虎之介の関係をどう書くかはすごく重要で、仕事を極めていく過程で万里絵がどのように変わっていくかもこの小説の大事なところだと思います 」
登場人物たちが互いにふくらみ合った結果、早苗が起こす小さな事件は、彼女の心の動きを知る読者にとっても衝撃的だ。錦見さんも「このシーンを書くまでが一番大変」だったとか。
「早苗さんがどうなっていくのかは、書いている最中も全然分からなかったんです。“発酵”というテーマがあったので、彼女が発酵しすぎて何かが起こるのは分かっていたのですが、一体どうなるのか分からなくてかなり悩んだんですよね。早苗さんの感情はよっぽどのことをしないと止まらないので、ある程度の大失敗をするだろうと思いつつ、突き抜けないといけないと思った結果あの事件が起こりました」
不倫の恋、初めての恋心、夫婦愛、性愛。ひと筋縄ではいかない登場人物たちの恋愛模様は、それぞれの価値観と幸せが並列に描かれつつ、思いもよらない結末に読者を運んでいく。
「身近に虎之介がいたらきっと“何なの、こいつ”と感じると思いますが、彼をこういうキャラクターにしたことで、妻の伊都子さんはかなり肝の据わった女性になりました。虎之介と伊都子さんはいわば強い酵母菌で、いつどんな組み合わせでも生き残っていけるサバイバル能力が高い人たち。彼ら以外はうまくいったり、いかなかったりして“何でだろう”と考えている普通の人たちなので、ああいう物語になりました。
私は恋人でも友達でも家族でも、仲間になれる人ってすごく貴重だと思うんですよね。自分の年齢もあると思うんですけど、恋愛よりも大事なものがあるというか、そのへんはだんだんどうでもよくなってくる(笑)。過去には恋愛や血縁による関係性が強いつながりだと思っていたこともありますけど、今は遠く離れて二度と会わない他人同士でも強い関係があると信じられるし、個々に名づけ得ない大切な関係性がいっぱいあるほうがいいと思っています」