赤ペン瀧川「僕は基本的にはコンプライアンスの順守だったり表現の規制については行けるところまで行けと考えているんです」〈インタビュー前編〉

さまざまなケースでの表現の規制について解説(撮影・蔦野裕)

「規制が多くてやりづらいと言っている場合ではない」

 もともと映画が好きだったこと、そして職業柄、多くの映像作品を見てきた瀧川に昨今の「表現」に関する業界の状況はどう映っているのか…。

 今は年間どれくらいの作品を見ています?
「数えてないんですが、多分、年に200本くらい見ているかなと思います。今年になってからは見た映画のタイトルをメモるようになったんですが、2月が終わるくらいで60何本見ている。このペースだと年間360本? 俺、そんなに見る必要あるかなと思うんですけど(笑)」

 プレゼンターとして見ている中で、古い映画と新しい映画で細かい描写とかで変わってきているなと感じるところはある?
「僕は基本的にはコンプライアンスの順守だったり表現の規制については行けるところまで行けと考えているんです。どんどん規制してみたらいいじゃないかと思っているんですよ。そもそも映画って市井の人々、一般の人に対しての娯楽であるということを考えると、経済状況だったり国の状況だったり、世相というものを汲んでいくべき表現だと思うんです。

 1920年代のアメリカは好景気ですごい栄華を極めていたんですが、1930年代に入って大恐慌の時代になると、ハリウッドは『ヘイズコード』という自主規制ガイドを作りました。“こういう描写はダメ”というやつです。それが30年くらい続いた。時代とか社会の空気と近いところで行われている表現なので、コンプライアンスがきつくなったり表現に規制がかかるのはやむを得ないこと。そういう規制がかかればかかるほど抜け道を探すためのアイデアなどを生み出していくのがクリエイターの仕事だと思うんです。だからルールが増えれば増えるほど、新しいクリエイティブが生まれる、というふうに思っているんです。

 例えば、テレビで放送するドラマと映画とでは規制や緩さが変わるじゃないですか。そういうものがある中でも面白いものを作るという努力が必要だと思っているので、規制が多くてやりづらいと言っている場合ではない。それをなんとかするのが俺たちの仕事だろうと思っています。それを嘆いているうちは新しいものは生まれないとも思うんです。だからスポンサーの多い映画ではなく、ネットフリックスとかアマゾンプライムとか、1社提供の“規制や気遣い”があまりない状態のところに監督が流れてくのはしようがないと思うし、ではそれを阻止するために日本の映画業界はどういう戦い方をしていくの?ということを考えていけばいいと思うので、現在、ある程度規制が厳しくなってきているのはしようがないとは思っていますね。

 ただ、作品名は言いませんけど、ある映画を見ていて、人に刺されて死んでいく人を抱きしめるというシーンがあったんですが、明らかに血の量がめちゃくちゃ少ない。その中で死んでいく芝居をしなければいけないとか悲しまなければいけない芝居とかを見ると“ああ、血の量ってレイティングも関係するしね”とかちょっと冷めるというか、“大変だな”と思う時もあります。血の量とか刺す現場を映していいかどうかなどは映倫のレイティングに引っかかってくるんですよね」