岸田奈美さん「こんなことはもう二度と書けない」と語る新境地『飽きっぽいから、愛っぽい』

「願わくばこういう文章をずっと書き続けていきたいなと思った」と語る岸田さん

「これを言葉にしないとやっていけなかった」泣きながら書いた最終話

「書く、出会いなおす」という一篇に〈味覚だけではなく、記憶も変わる。長い年月をかけて、当然のように〉という一節があるように、本書の中で記憶を語ることの不確かさやそれを書く行為について繰り返し言及している岸田さん。その真意について問うと「事実だと思っていたことでも、人によって覚えていることが違うし、人の記憶というのは本当にいい加減です(笑)」と笑ってこう言い放つ。

「エッセイって根も葉もある噓なんだと思います。講談社さんの校閲が入った時に、固有名詞や時代を間違えていて “その時代にこのおもちゃは発売されていませんでした” とか “この地域にその地名はないですけど、どこですか” と指摘されて “えーっ!?” みたいなことが結構ありました。その時代に出ているファービーは逆輸入版じゃなかったり、私は長野だと思ってたけど、お母さんは鳥取だと思っていたり。同じ事実をああ見た人もいれば、こう見た人もいることで過去が立体的になっていくので、そういう指摘をされるのはやっぱりうれしいものですよ。

 実は『50万円で引き換えた奇跡』で雪国まで下半身麻痺のリハビリに行った時、お母さんが〈奇跡でもなんでもいいからとりあえず、信じてすがれるものがほしかった〉と話したことも、本人は覚えていなかったのですが、私が覚えてるって言うとすごくうれしそうなんですよ。お母さんの中では高校を休ませて娘を連れて行った罪悪感があるから、私ほど笑い話にできていなくて思い出の消化具合が違っているのかもしれません。名言を言おうとか励まそうと思って作った言葉って意外と響いてなくて、何気ない言葉のほうが心に残るのはいいことだなって思いますね」

 さらに〈わたしはなんのために、エッセイを書いているんだろう〉から始まる「エッセイを書くこと」では、ここまで自分の感情をさらけ出せるのかという文筆家としての凄みが胸に迫る。そう伝えると、岸田さんは「最終話を書いた時には泣いてました。最後の3~4話は毎回 “最終回どうしよう” って考えながら書いてたんですけど、こんなものを書くとは思ってなかった。自分の中にずっと後ろめたさみたいな “何なんだろう、これは” という感情があって、恥ずかしいし情けないんだけど、これを言葉にしないとやっていけなかったんです」と絞り出した。

「このエッセイを書いている中で、忘れていたことを思い出したり、モヤモヤしていたことを “こういう感情だったのね” と整理できたり、何でもなかったことをシャッターを切るように “ここ、ここ” と取り出せたり。自分の中からそういう文章が出てきたことがうれしくて、それで世界が変わるとも、一生食べていけるとも思ってないんですけど、願わくばこういう文章をずっと書き続けていきたいなと思ったんです。

 ダウン症の弟はうまくしゃべれなくて、人に思いをちゃんと伝えられないのがもどかしくて暴れたり、“ヤダー!“ とか “バカー!” とか言ったりします。私も反抗期の時に〈お父さんやなくて、お母さんが死ねばよかったのに〉と言っちゃったことがあるんですけど、そういう時にうちのオカンは〈子どもは口で言ってることより、言ってないことの方が大切やねん〉と言ってくれて。

 だから文章でも何を書いたかじゃなく、何で書いたんだろうというところにこれから先の人生のお守りのようなものがあるなと思ったんです。ここで自分の感情に向き合わないとずっと噓ばかり書くことになっちゃう。これを書くことによってどう見られるかというのはあまり考えてなくて、自分でも不思議ですけどここにたどり着くべくして書いたと言えるし、こんなことはもう二度と書けないと思います」