岸田奈美さん「こんなことはもう二度と書けない」と語る新境地『飽きっぽいから、愛っぽい』

谷町の長屋の住人たちが愛したカニサボテン(写真はイメージです)

【特別公開】はじめに 岸田奈美『飽きっぽいから、愛っぽい』

 わたしは、張り切っていた。

『小説現代』でエッセイを連載させてもらえることになった。わたしはインターネットのブログで、百文字で済むことを二千文字で書いては「アレ、これなんの話をしてたんだっけ、まあいいや」と開き直って公開するような恥多き人間だった。食べざかりの中学生を抱えた家庭の、大皿料理のような制作過程である。芸は芸でも、文芸の香りはしない。

 そこへきて、文学賞作家や知識人が原稿をよせる、立派な文芸誌での連載。浮かれに浮かれて、張り切った。

 張り切りすぎて、五回目で書くことがなくなった。

 幼少期から今までの人生を、叙情たっぷりに語っていくはずが、わずか五回で人生が枯渇した。ゼェゼェ息切れして走るわたしの横を、貧弱な思い出が鼻で笑いながら追い越していく。

 もだえていても、ありがたい締め切りはやってくる。なにか書き残したことはないかと、思い出の絞りカスを拾って再利用するため、恥ずかしい過去をもう一回さかのぼってみる。秋の風物詩、車道ギリギリまで出ていって、銀杏を拾う老婆と同じ覚悟である。

 そしたら、不思議なことが起きた。

 過去に起こった事実は同じでも、一度目に書くのと、二度目に書くのでは、原稿が変わる。さらっと流したはずの誰かの言葉が妙にひっかかったり、おもしろいと思って書いたボケを存在ごと葬り去ったり、土から引っ張り出した芋みたいに別の記憶がポコポコと連なったり、とにかくガラリと違う作品になった。

 ひとつの過去を、いつ振り返るかによって、とらえ方が変わる。これは発見だった。

 わたしの中にはまだ、なんだかよくわからないまま眠っている、大切な過去があるということだ。家の庭に黄金が埋まっていると知らされたような気持ちだ。シャベルを握らずにはいられない。過去と出会いなおしてみたいと思った。

 とはいえ、そうポンポンと簡単に過去が会いに来てくれるわけじゃないので『場所』という約束をつくった。西宮浜(にしのはま)、鈴蘭台(すずらんだい)、美竹(みたけ)通りといった地名から日本海上空まで、ある場所から、風景や会話がぶわっと広がってくれた。

 喜んだり、苦しんだりしながら、たくさんの場所を巡ったあと、最後にわたしはパソコンの前にたどり着くのだけど、それを書くためにすべてを始めたんだと涙が出た。わたしがたどり着けたその場所で、今からみなさんをお待ちしています。