固定概念の破壊と構築は、赤ちゃんから学べるの巻!【徳井健太の菩薩目線 第198回】
“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第198回目は、赤ちゃんを育てることについて、独自の梵鐘を鳴らす――。
赤ちゃんと接していると、大人になってからでは気が付かないような発見を目の当たりにする。もう、その時点で「生まれてきてくれてありがとう」なんだよね。育児は発見の連続で、僕らを成長させてくれる存在だ。
僕たち大人は、当たり前のようにコップで水を飲むことができる。だけど、赤ちゃんはそうはいかない。下唇にコップの縁を上手にあてて飲むことができないから、僕の赤ちゃんはダラダラと水をこぼしてしまう。ストローは、赤ちゃんにとって欠かすことができないアイテムで、僕らはストローのありがたみを毎日のように感じている。
どういうわけか赤ちゃんは、グラスよりもペットボトルで飲みたがる。おそらく、僕たちが毎日のようにペットボトルで飲んでいるから、赤ちゃんにとっては「あこがれ」なのかもしれない。「グラスに注いで何かを飲むこと」と「ペットボトルで何かを飲むこと」を比べたとき、今では後者の方がより日常的な光景だ。自分たちの行いが、明らかに赤ちゃんに影響を与えているのだと、ひしひしと感じる。
僕を見て、赤ちゃんは「ペットボトルで飲みたい」といった意思をぶつけてくる。感じ取った僕は、ペットボトルにストローを差し、「はい、どうぞ」と手渡す。
きっとここに何かを入れたら、すべてが美味しくなってうまくいくと思い込んでいる赤ちゃんは、ペットボトルを魔法の瓶か何かだと思っているのだろう。ときには、フライドポテトを沈めて、まるで金魚を眺めるようにキャッキャと喜んでいる。勢いよくストローを吸ったところで、フライドポテトは口の中には運ばれないから、不思議そうな顔をしてプカプカと水中を漂うフライドポテトをみつめている。
僕は、「それだと水が美味しくなくなるよ」と教えようとした。次の瞬間、なぜだかその気がなくなった。子ども注意するときや叱るときは、基本的に親の都合が多いという。たとえば、「いつまでもテレビを見ていないで勉強しなさい」とか叱るとき。もしかしたら、子どもはテレビを見た方が気持ちが乗って、勉強がはかどるかもしれないのに。でも、一般的な常識に照らし合わせた結果、「テレビの見すぎはよくない」という一方的な大人の講釈が発射される。
フライドポテトをペットボトルに入れることなんて、どうでもいいことのような気がした。赤ちゃんにとっては、水の中にカットレモンが入っていようが、フライドポテトが入っていようが、どちらも違和感がないってこと。僕ら大人にとっては雲泥の差だけど、赤ちゃんはそうじゃない。いつか自分で気が付くそのときまで、思う存分、笑っていてほしいなぁ。赤ちゃんは、違和感の少ない世界で生きているんだから。
僕らにとって違和感とは、目に見えるものがほとんどだと思う。ミネラルウォーターの中にフライドポテトが沈んでいるから違和感を覚えるのであって、一度、取り出してしまえば、その事実を知らない人は何も違和感はない。
みんなと鍋をしているときだって、平気で食べているじゃないか。友だちの家に行って鍋パーティーをする――。その友だちがどんな水を使って、どれくらい衛生面に気を遣っているかなんて分からない。でも、そんなことは一切気にせず、鍋を囲んで「おいしいね」なんて言いながら盛り上がる。
とんかつ店が、どれだけきれいな油で肉を揚げているかなんて、厨房の外にいる僕らには分かりっこない。もしかしたら、一年に一度くらいは何かの間違いで、鼻をほじった手で揚げてしまうことだってあるだろう。だけど僕らは、そんなことはまったく考えずに、目の前に運ばれてきたとんかつに食らいつく。
結局それって、我が家の赤ちゃんがペットボトルにフライドポテトを入れて満足げに眺めていることと、変わらないんじゃないかなって思うんです。赤ちゃんは目に見えていても、そのことを違和感だと思っていない。僕らは、勝手に「そうであるべき」と考えすぎて、変になりすぎている。
固定概念がないほうが、自由で楽しいに決まっているんだよね。赤ちゃんから教わることって、本当にたくさんある。育てているのは、自分なのかもしれないって、いつも思わされている。
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