マダム・タッソー東京で時代に触れる!
今年3月にお台場にオープンした、マダム・タッソー東京。セレブリティ、スポーツ選手、政治、さらには歴史上の人物などの精巧な等身大フィギュアは多くの来場者を楽しませるが、展示フィギュアすべては、フランス革命下、時代に翻弄された1人の女性、マダム・タッソーの技を受け継ぎ作り上げられたもの。見て、触って楽しいフィギュアたちは、彼女の波瀾万丈な人生の上に、できあがっている。
お台場に新たな魅力を加えた「マダム・タッソー東京」。3月のオープン以来、週末はもちろん、平日においても、世界中から老若男女が訪れる。ジョニー・デップに、オバマ米首相や小泉純一郎元首相。さらには、マイケル・ジャクソンやマドンナ、レディー・ガガ……。本物そっくりのフィギュアに目をまんまるくさせると、一緒に写真を撮影。そして、その体や腕、髪に触れ、声をあげて楽しむ。
そんな楽しさにあふれたアトラクションだが、誕生の経緯は意外にもダークだ。
施設の名前になっているマダム・タッソーは、1人の女性の名前。フランスで生まれ、ワックスワークの技術を学んだのち、フランス王室で芸術の家庭教師を務めた女性だ。そのため、フランス革命時には、王家との関係から投獄されてしまうが、その技術を使って処刑された人たちのデスマスクを作成する指示に従って、彼女自身は処刑を免れている。
革命後彼女は、イギリスに進出。等身大フィギュアの巡回展を行って成功を収め、その後、1850年に88歳でこの世を去るまで、イギリスを拠点に活動。そのあいだに、多数のフィギュアを手掛けた。
「マダム・タッソー東京」のような常設のアトラクションの起源は、1835年。コレクション展示をロンドンで常設し、後に彼女の名を広く知らしめることになる「Chamber of Horrors(驚愕の部屋)」を展示した。この作品は、フランス革命時の経験を再現したものだ。その後、火事などに見舞われながらも、ベイカーストリートバザールに移り住んで制作を続けた。この場所は今、世界に広がる「マダム・タッソー」の本拠地に。さらに、ロンドンの「マダム・タッソー」として、多くの人を楽しませている。
東京はもちろん、世界の「マダム・タッソー」で展示される等身大フィギュアは、今も、昔と同じ方法で作られている。
「マダム・タッソー」の誕生から、時代は大きく変わり、技術も大幅に進化した。それでも、彼女の技法にこだわるのは、彼女が積み上げてきたワックスワークに魅力があるため。だからこそ、スターも「マダム・タッソー」のフィギュアのモデルになることを素直に喜び、ステータスと感じる人も少なくない。
マダム・タッソーが作り出した最高のアトラクションは、今日もまた多くの人に笑顔を届けている。
History of Madame Tussauds マダム・タッソーの歩み
1761 仏ストラスブールで、マリー・グロショルツとして生まれる。
1777 ドクター・フィリップ・クルティウスに師事し、ワックスフィギュア制作の技術を学ぶ。
1780 美術の家庭教師として仏王室に招かれ、ルイ14世の妹を教える。
1789 フランス革命が勃発。
1793 投獄。王家との関わりによって革命の敵として有罪判決が下る。斬首刑を逃れるも、処刑された人たちのデスマスクを製作するよう指示される。フロベスピエール、ルイ16世と王妃のデスマスクも製作。
1794 フランス革命が終わる。クルティウスの等身大フィギュアを相続。
1795 技師のフランソワ・タッソーと結婚。
1802 夫を残し、マダム・マリー・タッソーとして展示を英国に移動。以降33年間にわたり英国を巡回。
1835 2 人の息子とともにロンドンの「ベイカー・ストリート・バザー」に拠点を設立。
1842 最期のフィギュアとして、自らの姿を形に残す。81歳。
1850 死去。88歳。息子と孫が事業を引き継ぐ。
1884 現在マダム・タッソーロンドンが建つメリルボーン・ロードに移転。
1925 火災により展示物が焼失。3年後に復旧。
1940 ドイツ軍の爆撃を受け、352の頭型と映画を焼失。
1971 アムステルダムに海外で初めてのマダム・タッソーをオープン。その後も、2012年までに、香港、ラスベガス、ニューヨーク、上海、ワシントンDC、ベルリン、バンコク、ウィーン、ブルックプール、シドニー
へと進出。
2013 お台場に常設展示。
【営業時間】10〜21時。休館日はデックス東京ビーチに準ずる【料金】大人(中学生以上)1900円 小人1500円 ※3歳未満無料、公式サイトでお得な前売り券販売【URL】http:/www.madametussauds.com/Tokyo/
写真:館内にはマダム・タッソーのフィギュアも。訪問客の楽しそうな笑い声が響くなかで、彼女の表情は暗く悲しい……