長島昭久のリアリズム
国家と安全保障を考える(その二)

 前回は、日本の地政学的位置づけについて基本的な認識を述べた上で、他の島国と比較しつつ、日本が世界史の中でも稀有な存在であることを明らかにしました。国際政治学の泰斗である高坂正堯は、このような日本の特性に注目し、日本を「東洋の離れ座敷」とか、西洋文明をいち早く受容したアジアの国という意味で、極東ならぬ「極西」と呼びました。また、『文明の衝突』を著したサミュエル・ハンティントンは、日本を世界8大文明(西欧、東方正教会(16世紀ビザンチン帝国発祥)、中華、イスラム、ヒンドゥー、アフリカ、ラテン・アメリカ)の一つとして、日本一国のみで成立する独立文明と喝破したのです。


 周知のとおり、大陸中国は、古来、周辺を朝貢国として属国化させ、東アジアから中央アジアに至る広範な領域をその影響下においていました。その強大な中国とわずかな距離の海を隔てて、毅然として対峙し続けた日本外交の要諦は、聖徳太子の時代から「和して同ぜず」。協調しつつも決して同化しなかったのです。


 西の神聖ローマ帝国と並び称された東の隋帝国皇帝に対し、時の摂政聖徳太子が発した言葉「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなしや」は、つとに有名です。まさに、日中対等を内外に闡明したのです。そして、翌年の国書にはさらに強烈な言葉が並びます。「東天皇、敬(つつし)みて、西皇帝に白(もう)す」。「天」という字は、古来中国では最上位を表す特別の語。聖徳太子は、平然と「自分の国は天皇で、貴国は(格下の)皇帝だ」と言い放ったのです。


 以降、遣唐使を廃止した菅原道真しかり、日宋貿易を促進した平清盛しかり、元寇に立ち向かった北条時宗しかり。豊臣秀吉も、徳川家康も、伊藤博文も、陸奥宗光も。例外は、朝貢を通じて日明貿易で儲けた室町幕府三代将軍の足利義満くらいで、聖徳太子以来、じつに1500年にわたって日本のすべてのリーダーが中国に対し「和して同ぜず」の堂々たる外交を貫いたのです。


 ところが、近代に入って、日本は中国大陸にのめり込んで行ってしまいました。私はこのことこそが、「失敗の本質」だと考えます。明治から大正にかけて、日清・日露の戦役に勝利し、国力を伸長させて行く途上で大陸進出を図り、これまで堅持してきた大陸不干渉政策を逸脱し、戦略的な大失策を犯してしまったのです。次回は、結果的に300万人余の同胞の命を奪い、日本列島を焦土とし、国家経済を破壊し尽くしてしまった、近代日本の戦略的な失敗の本質に迫りたいと思います。(衆議院議員 長島昭久)