古賀稔彦さん死去。その11日後に次男・玄暉が全日本体重別を初制覇
1992年バルセロナ五輪の柔道男子71キロ級金メダリストで「平成の三四郎」と称された古賀稔彦さんが3月24日、川崎市の自宅でがんのため死去した。53歳だった。
古賀さんは1988年のソウルでオリンピック初出場を果たしたものの、3回戦で敗退。1992年のバルセロナ五輪では直前の練習中に左ヒザを負傷。出場できる状態ではなかったものの、痛み止めを打ちながら不屈の闘志で勝ち上がり、金メダルを獲得。見る者に大きな感動を与えた。1996年のアトランタ五輪では銀メダルに終わり、2000年に現役を引退した。
その後は指導者となり、全日本女子柔道チームの強化コーチに就任。2004年アテネ五輪では愛弟子である谷本歩実が女子63キロ級で金メダルを獲得。金メダルの瞬間、谷本が古賀さんのもとに走り寄り抱き着くシーンも古賀さんを語るうえで欠かせない。
古賀さんは昨春ころから体調を崩し、療養中だった。闘病生活では3つの病院に通い、納得のいく治療を求めた。
古賀さんが中学、高校の6年間鍛錬を積んだ東京の柔道私塾「講道学舎」の当時の師範だった全柔連元強化委員長の吉村和郎氏(69)が3月上旬に連絡した際、古賀さんは「抗がん剤で声がかれています。体重も落ちて、歩くだけで倒れることがある。体力が落ちるのって早いですね」と弱っていたという。
また古賀さんの次男、古賀玄暉は柔道の世界選手権(6月・ブダペスト)代表最終選考会を兼ねた全日本選抜体重別選手権の60キロ級に出場し、最終日(4月4日)に行われた決勝で勝利を収め初優勝を果たした。玄暉もバルセロナの時の父同様、大会まで2週間余りの段階で左ヒザを負傷。痛みを克服しながらの練習と減量を経ての勝利だった。優勝後、玄暉は「何も恩返しできずに亡くなってしまったので、何としても優勝したいという気持ちで戦いました」などと語った。