日本のサッカー界、「令和の社会革命」は何か?【鈴木寛の「REIWA飛耳長目録」第12回】
今年は日本サッカー協会が100周年。1921年(大正10年)大日本蹴球協会が創立されました。
当時の世相は、第一次世界大戦終結から3年後で戦後恐慌に突入。原敬首相が暗殺されるなど社会が混迷している中での船出でしたが、インターハイを開催し、日本代表が初の国際Aマッチとなる極東選手権大会に出場。8年後にはFIFAにも加盟するなど、まさに日本サッカー界の黎明を感じさせる出来事が並びます。
そして、先月下旬、私、100周年に際して、功労表彰を受賞いたしました。競技関係者だけでなくさまざまな形で普及・発展に貢献した個人や団体に贈られるもので身に余る光栄です。中高とサッカー少年だった私が通産省勤務時代、Jリーグの立ち上げをお手伝い。以来30年近く、いろいろな出来事がありました。
2002ワールドカップの情報通信委員を務めたり、2022ワールドカップの招致副委員長としてカタールに惜敗したり、U20女子ワールドカップを招致に成功したり……7年前からは協会理事として関わっていますが、私自身が今もなおサッカー界の発展のため、情熱や知見を注ぎ込むことができたのは、スポーツ界の中でもいち早く「社会をよりよく変える」信念を打ち出し、今もなお魅了され続けているからです。
サッカー協会の定款第3条では「この法人は、日本サッカー界を統括し代表する団体として、サッカーを通じて豊かなスポーツ文化を創造し、人々の心身の健全な発達と社会の発展に貢献することを目的とする」と規定しています。この「サッカーを通じて」という文言が肝。つまり、サッカーを振興するだけではなく、「スポーツ文化の創造」「人々の心身の健全な発達」「社会の発展」が目的であることを明確にうたっています。
競技関係者、クラブだけでなく地域の住民がサッカーを「文化資本」「社会関係資本」にまで発展させ、子どもたちはもちろん、老若男女、障害のある人もスポーツを楽しむ文化が広がり、地域社会・経済を活性化しました。川淵三郎さんがかつて「単にサッカーを強くするのではなく、社会的革命をもたらす」と語られていた通りになったのです。
歴史の荒波を乗り越えてきたサッカー界ですが、コロナで他のプロスポーツと同じく未曾有の苦境に陥っています。東日本大震災後のなでしこ世界一をはじめ、国民的感動をもたらしたサッカーの力を、どう持続・発展させていくか。協会100周年を機に全てのサッカー界関係者が、その社会的・歴史的役割を考え直してみることが大事ではないでしょうか。
(東大、慶應大教授)
鈴木寛
1964年生まれ。東京大学法学部卒業後、1986年通商産業省に入省。
山口県庁出向中に吉田松陰の松下村塾を何度も通い、人材育成の重要性に目覚め、「すずかん」の名で親しまれた通産省在任中から大学生などを集めた私塾「すずかんゼミ」を主宰した。省内きってのIT政策通であったが、「IT充実」予算案が旧来型の公共事業予算にすり替えられるなど、官僚の限界を痛感。霞が関から大学教員に転身。慶應義塾大助教授時代は、徹夜で学生たちの相談に乗るなど熱血ぶりを発揮。現在の日本を支えるIT業界の実業家や社会起業家などを多数輩出する。
2012年4月、自身の原点である「人づくり」「社会づくり」にいっそう邁進するべく、一般社団法人社会創発塾を設立。社会起業家の育成に力を入れながら、2014年2月より、東京大学公共政策大学院教授、慶應義塾大学政策メディア研究科兼総合政策学部教授に同時就任、日本初の私立・国立大学のクロスアポイントメント。若い世代とともに、世代横断的な視野でより良い社会づくりを目指している。10月より文部科学省参与、2015年2月文部科学大臣補佐官を務める。また、大阪大学招聘教授(医学部・工学部)、中央大学客員教授、電通大学客員教授、福井大学客員教授、和歌山大学客員教授、日本サッカー協会理事、NPO法人日本教育再興連盟代表理事、独立行政法人日本スポーツ振興センター顧問、JASRAC理事などを務める。
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