黒田勇樹「ネットでは議長がいない会議が延々と繰り広げられている。9割がよしと言うことをやろうと思ったら平和で無難なものしか作れない」〈インタビュー後編〉
昨今、「コンプライアンスの順守」という声が大きくなるにつれて「表現の自由」が侵されているケースはありはしないか? ということで劇作家・演出家・映画監督、そして俳優とあらゆるスタイルで表現にかかわる黒田勇樹へのインタビューの後編は「表現」を取り巻く現状をより深堀りした。
〈前編はこちら〉
「コンプライアンスの順守と表現の自由の間」について聞く
表現の問題で言えば「言葉狩り」というのもあります。
「例えば、結婚した相手のことを男性は妻とか嫁とか奥さんと言うじゃないですか。嫁は女の横に家、奥さんも“奥にいろ”ということで差別的であるということでパートナーとか妻としか言わせないという世界があるんですね。公の場で僕が喋るときは妻とかパートナ―という言葉を選べばいいんですが、映画などで昭和60年を舞台にした作品を描く時に、その時代の人がパートナーって言ってたらおかしくないですか? 昭和60年だったら、おばあちゃんは自分の息子の嫁のことを嫁と呼んでいた。そういう時代でした。
ヨーロッパの中世の話や日本の戦国時代の話を書いたら、人が死んだり、貧しい家の子供が売られるということを描かなければいけないじゃないですか。現代社会の物語を作るときは配慮するべきことであるけど、その時代にとっては人殺しや人身売買を描かなければ事実に近いものが作れないというのと、妻の呼び方は一緒なんです。すごい素敵になった現代の世の中で、パートナーとか妻という言葉を使う人がいる半面“いや、うちの嫁は”というダメな奴が出てくるならば、やっぱり嫁という言葉は使われないといけないじゃないですか? それに僕は別に嫁も奥さんも悪い言葉とは思っていないので、できるだけ散らして全部使うようにしています」
散らすというのは?
「ひとつの話のなかで“嫁が”とか“妻が”とか“奥さんが”とかを気にしないで言うようにしているということです。演劇に例えると分かりやすいんですが、僕、俺、自分、私という一人称はたくさんありますよね。この人に対しては僕、この人の時には俺というように台本の時にかき分けているんですが、俳優さんって面白くて“この役の一人称は僕じゃないんですか?”って聞いてくる人がいる。“僕はこうでこうで”とか言った後に“いや、だから俺がずっと言ってんじゃん”というシーンがあってもいいじゃないですか。でも“僕の後に俺が来るの嫌なんです”という俳優さんがいたりする」
そういうふうに俳優としての教育を受けてしまっているのか、世間の状況を見てそう思い込んでいるのか、個人の資質なのか?
「どのケースもあるんですが。奥さん、妻、嫁というのはその人のその時の気持ちや描いている時代の文化に即しているものであればいいはずであって。作られた年代の文化とルールだけでやるというのと、描いている時代の文化と、あとは見ている人と描かれている人の人間性の違い、この辺が差別化されないとしんどくなるでしょうね」