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カツカレー=欲望。カツカレーが人気のお店に行くと、その街のリアルがわかる。<徳井健太の菩薩目線 第123回>

2022.01.30 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第123回目は、カツカレーについて、独自の梵鐘を鳴らす――。


新宿周辺に住んでいる。

近所には普通のスーパーもあれば、老若男女が集まるような飲食店も多い。新宿と聞くと、喧騒をイメージする人は多いだろうけど、穏やかな人もいれば静かなたたずまいのお店もたくさんある。むしろ、俺自身は荒くれた人や店を目にする機会の方が圧倒的に少ない。

俺が住むエリアの近くにタワーマンションがある。その近くに、チェーン展開をしている有名なカツカレー店がオープンした。食べログ信者である俺は、そのカツカレーが美味しいということを知っていたから、早速開店2日目に行ってみることにした。

大きくはない店内。カウンターがあって、少しのボックス席。見渡すと、驚くほどに客の全員が、オールバック横刈り上げのハイアンドローな人たちばかりだった。いかつい。新宿で、こういった系統の方々ばかりに遭遇するお店は初めて。近くのタワーマンションの住人なのかもしれない。同じ属性だろう別カップルの女性の話し声が異様にデカく、ずっとブルガリの話ばかりしている。

気持ちがいいくらいオールバック横刈り上げの占有率が高い店内。全員が知人というわけではなさそうだけど、シルエットはほとんど同じ。そのうちの1人が、大声で電話をし始める。「今から来る?オッケー」。店内はすでに満席だ。

「かつ? ロース? ヒレ? わかった。席、取っておくわ」

理解できなかった。

数分後――。到着すると、オールバック横刈り上げは無理やりカウンターに席を作り、やってきた彼をわがままにエスコートした。ぎゅうぎゅうの空間に腰を下ろした彼もまた、オールバック横刈り上げだった。

ドラクエのマドハンドだらけの店内。マドハンドDがマドハンドEを呼ぶ。逆方向にいるブルガリ彼女とは別のカップルは、カツカレーを食べながら2人とも無言でボートレースの中継を見ていた。オールバック横刈り上げではない俺が、なぜここにいるのか腑に落ちた。

カツカレーは、欲望に忠実な人間が好む食べ物なんだ。そう思った。

よくよく考えれば、カレーにかつが乗っかっているわけで、欲望のかたまりのような食べ物だ。カレーにかつが乗っちゃっていたら、もうゴリゴリ。ゴリゴリのゴリ。カツカレーは、「欲」を食べているようなものだ。

丸出しの欲を提供する店内。スタッフも、己の本能に実直だ。オールバック横刈り上げBの注文を、明らかに間違えたにもかかわらず、一向に非を認めない。Bが怒りをあらわにしても、「違うと思うんですけどねー」と意に介さない。一色触発のムード。シーンとして、場がさめていく。揚げたてなのに、かつが固く感じるのは気のせいでしょうか。

徳井健太と謝らない店員がいる店内。カツカレーを求めて、自分の主義主張に一直線の人間がやってくる。

ふと考える。美味しいとんかつのお膳を頼もうものなら2000円はくだらない。なのに、このカツカレー専門店は、とんかつ店に勝るとも劣らない美味しいかつを提供し、さらにはカレーがかかっているのに、1000円そこそこで食べることができる。なんで美味いカレーがかかって、安くなるんだ。

カツカレーは、上品さとは対極にあるだろう欲望の一品。欲望定食。当然、欲のかたまりみたいな人間が集まってくる。そう言えば、このエリアには美味しいと評判のインドカレー店もあるけど、オールバック横刈り上げの生息を確認したことはない。ああ、言われてみれば、オールバック横刈り上げがナンをカレーにディップして食べる姿なんて想像できない。肘をついて、カツとカレーを流し込む。それが欲望というやつだ。

欲望という名の店内。カツカレー専門店には、やんちゃな人しかやってこない。国民食と呼んでも差し支えないだろうカレーライス。老若男女から好まれるカレーライスに、かつが乗っかるだけで、世界が変わる。かつが上陸するだけで、本来であれば生息地域が違う欲望集団が進軍してくる。

カツカレーは、淡水と海水が交わる汽水域。生命のせめぎ合いが行われているから、欲に忠実な、丸出しの人間が集まるのかもしれない。俺が暮らすエリアに、こんなにたくさんのシーラカンスがいるとは思わなかった。

自分が住んでいる街には、思いもよらない人がいる。人はみな、自分の肌に合う場所に通い、好きな人とだけ顔を合わせる。でも、カツカレーはあるべき木戸をぶっ壊す。

カツカレー店の店内。美味いお店に行くと、その街のリアルがわかるのは気のせいでしょうか。

『バンクシーって誰? 展』の異様さ。これはきっとバンクシーの仕業だ!<徳井健太の菩薩目線第122 回>

2022.01.20 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第 122 回目は、『バンクシーって誰? 展』について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

「おいおい、マジかよ」

 寺田倉庫 G1ビルで開催されていた『バンクシーって誰? 展』で、何度もそうつぶやいた。

 同展は、2021年8月21日~2021年12月5日まで行われ、俺は最終日直前にようやく足を運ぶことができた。バンクシーの作品群を、再現展示することで、あたかもその作品が存在する現地にいる――かのように没入できるとあって、楽しみにしていた。

 事前にチケットを購入し、天王洲アイル駅を降りると、なにやら行列ができている。「チケットをお持ちではない方」的な行列らしく、100人以上が列をなしている。たしかに今日は、最終日の土日。駆け込みでバンクシーを見たい人が黒山の人だかりになっていても不思議じゃない。あらかじめチケットを買っといて、我ながら大正解だった。

 列を遠目に眺めながら倉庫につくと、ちょっとした広場にも行列ができている。先ほどの直線の列とは違い、アトラクションの乗車待ちのようなウネウネの列だ。「入るまでこんなに並んでいるのか」。一瞬躊躇したものの、今日を逃せばいま手に握りしめている入場券は紙切れになってしまう。

「仕方ないか」、そう割り切った俺は最後尾へと歩を進め、一時間くらい並ぶことを決意した。なかなか進まず、非生産的な時間を過ごす。入場規制を出すなり、時間指定で区切るなりすれば良かったような気がするのに。以前訪れたバンクシー展は、そんな対応だったことを思い出しながら、ひたすら待ち続けた。

 牛歩とはいえ、とらえようによっては、着実に進んでいるわけで、入り口が近づいてくる。ウネウネとした大腸の中を進む消化物のような気分で、外の世界を目指す。死角となり、今まで見えなかったスペースへと入ると、エレベータが見えた。これを降りれば入場ゲート。

「やっとついた。ようやく見ることができる」

 はずだった――。エレベータへの動線は湾曲していて、その脇をすり抜けるように列は迂回していた。ざっと見たところ、今まで並んでいた大腸の5倍ほどの人影が連なっている。人の大腸から、牛の大腸へ。第二ステージの始まりだ。

 絶望した。

 あと一体、どれくらい並べばいいんだろう。もう帰りたい。でも、1時間並んでしまっている以上、ここで引き返すのは癪にさわる。ギャンブルと同じ。すでにパチンコに1万円をつぎ込んでいる手前、もとを取り返そうと、さらに金は消えていく。これをあぶく銭という。

 金融用語で、すでに投資した事業から撤退しても回収できないコストのことを「サンクコスト」というらしい。埋没費用だとわかっていながらも、無駄にはしたくないからと、またつぎ込む。そうして俺は、列という名の投入口に吸い込まれた。

 列の動線に、クイズやトリビアを紹介することはできなかったんだろうか。相手は、あのバンクシーだ。バンクシーにまつわることを散りばめたりすれば、もう少しこの苦行を楽にさせることもできただろうに。重たい時間だけが過ぎていく。周りを見ると、みなスマホを取り出し、下を向いている。

 ついに、子どもが泣き出した。それを睨む、後続の群衆。三時間が過ぎ去ろうとした頃、ふと思った。

「これは現代アートなんじゃないか」

 誰もが疑うようなイカれた列を作り出すように――そんな皮肉めいた指示が、きっとバンクシーから送られているに違いない。これはバンクシーによる意図的な「行列」という名の作品で、俺たち来場者は彼の一部になっているんだ。

 そう思い込むようにした。じゃないと、説明が付かない。あの当日券を求めて並んでいる人は、この事実を知らない。何の表示もなかった。当日券の列の後に、こんな諧謔的な光景が広がっているなんて夢にも思わないだろう。

 バンクシーは、お金や資本主義を真っ向から皮肉っている。落札直後にシュレッダーで裁断された絵は、最たる例だ。結果、その絵は新たな箔が付き、約25億円で落札されたという。きっとバンクシーは、お金の価値なんてそんなもんだよなんて笑っているに違いない。

 並ぶことに神経がマヒしてしまった来場者は、展示を前にしても、規則正しく並び続けていた。自由に見てもいいはずなのに、列がある方へと向かっていく。バンクシーは、たった三時間で洗脳装置を作り上げた。きっと寺田倉庫のどこかで、列という列を見て、ほくそ笑んでいるんだ。

かまいたちから学んだ“『M-1』決勝でやるべきネタ”の極意<徳井健太の菩薩目線第121回>

2022.01.10 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第121回目は、『M-1グランプリ2021』について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 新年あけましておめでとうございます。

 新年早々、昨年の話をぶり返すのもどうかと思うけど、年末の風物詩、『M-1グランプリ2021』について綴りたい。

 優勝は、周知のとおり錦鯉。おめでとう。ただただ面白かったです。

 ツッコミの渡辺君は、東京NSC5期生。つまり、俺と同期。当時は、ガスマスクとして活動していた。

 今はどうだかわからないけど、俺たちの時代のNSCは、300人を100人ずつ3つのクラスにわけていた。といっても、ここに優劣はなく、一コマの授業に総勢300人はキャパオーバーなので、100人ずつにわけていただけなのだが、俺と渡辺君は違うクラスにいた。そのため、ほとんど接点がなかった。

 ときどき行われる全体ネタ見せのときに、はじめて他の2クラスのネタを見ることができる。そのため、ガスマスクのネタはたまにしか見ることができなかった。ぼんやりとだけど、かなり尖がったシュールなネタだった……ような気がする。少なくても、錦鯉のようなわかりやすいネタではなかった。

 NSCを卒業すると、芸人として続ける道を選んだ生き残りたちが、クラスの壁を越えて交じりあっていく。だけど、どういうわけかガスマスク、そして渡辺君と何か話したような明確な記憶はない。

 20代そこらの若気の至りでしかない人間なんて、毎日がゆめまぼろしみたいなもの。ヨシモト∞ホールができるまで、俺は誰とも話していないような気さえする。だから、当時の記憶はほとんど覚えていない――というのが実態なんだが、本当に接点がない同期の一人だったと思う。

 そのため、「ついに同期からM-1王者が生まれたか」なんて感傷にひたることもなかった。ただただ、錦鯉は面白かった。そして、チャンピオンになるべくしてなったという印象を抱いた。

 YouTubeチャンネル『徳井の考察』でも、「M-1グランプリ2021感想戦」と題して生配信を行った。ありがたいことに300~400人ほどが集まった。当コラムでも触れた「『徳井の考察』感想戦生配信は、お笑いのビッグイベントだけに特化した方がいいのか問題」は解決したのかもしれない。やはりアニメを語っている場合ではないらしい。

 感想戦で、俺は「尖ったネタだと優勝できない」と話した。

 いくつか理由があるのだが、『かまいちょぱ』(M-1グランプリ2021について振り返りトークをする回)にゲスト出演した際に、それを裏付けるようなことをかまいたちが教えてくれた。

 彼ら曰く、「決勝に行く前(準決勝止まり)」と、「決勝に行った後(ファイナリスト)」と、「決勝のファイナル(最終3組)」とでは、考え方がまるで変わるという。

 一旦、俺個人の意見に戻る。真空ジェシカやロングコートダディのネタは、一昔前のM-1、つまり俺らがもがいていた時代であれば、決勝のファイナルに進出しても何ら不思議ではないほど完成度が高かったと思う。そんな実力者ですら3組に残れない。出場資格が10年から15年に伸びたことも大きいだろう。間違いなくM-1は、次のステージへと進んでいるのだと思う。

 ただ、進化し続ける中でも、歴代の優勝者は「みんながウケる(笑う)ネタが優勝している」という印象を抱いていた。昔、笑い飯さんに「M-1ってどうやって仕上げているんですか?」と尋ねたことがあった。この人たちをおいて、M-1の証人と言える存在はいないだろうから。

「必ず学祭で仕上げる」

 それが返ってきた答えだった。当時の俺は、意味が分からなかった。もっと言えば、「うそつけ」とすら思った。あの笑い飯が、なぜ学園祭で――。いやいやいや、そんな馬鹿な。ずっとわからかった。

 でも、今回の「M-1グランプリ2021」でようやく理解した。学祭でウケるネタは、わかりやすくウケるネタ。どれだけ面白くても、どれだけ発明的でも……万人に受けるネタじゃないと優勝できないのではないか?

 ここで再び、二人目の証人、かまいたちにご登場願う。そのことを山内に伝えると、「ようやく気が付きましたね」とニヤリと笑った。

 彼らがファイナリストになった1回目、2回目のときは、劇場によってネタを変えていたという。老若男女が来るNGK、若い子が多いよしもと漫才劇場という具合に。そのやり方でネタを磨けば決勝までは行ける、らしい(「らしい」と付けるのは、俺は行ったことがないため)。ところが、この仕上げ方では、最終3組に残れないと付言する。若い子にウケても、年配者にはウケないため、爆発力が足りずに4位以下に沈む、と。

 このことを悟ったかまいたちは、優勝を掴むため、どの劇場であっても同じネタで挑み、どの層からもウケが良いネタは何かを見定め、そのネタだけをやり続けたそうだ。それを2本、3本用意する。そうしなければM-1は制覇できない――。「必ず学祭で仕上げる」の言葉にも通ずる、証人であり猛者だからこその考え方。俺は舌を巻く他なかった。そこまで考えているかまいたちですら優勝できなかった。ミルクボーイのネタは、さらにその上を行く、最強の万人ネタだったからだ。

 歴代王者を思い出してみる。どの箱でやっても、どの層がいても、一番ウケるネタをやり遂げたコンビが、ファイナリストの中から優勝している。錦鯉のネタも、誰もが笑ってしまうネタだった。M-1決勝においては、勝ちに不思議の勝ちはない。おめでとう、錦鯉。

ある仕事を通じて、「誰も気に留めないかもしれないこと」こそ、未来を作ると感じた<徳井健太の菩薩目線第120回>

2021.12.30 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第120回目は、いま取り組んでいる仕事の重大さについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 今年も終わりが近づいている。来年はどんな一年になるだろう。

 いま、声の仕事をしている。といっても、声優のような仕事ではなく、影から声をあてる仕事。『スッキリ』の天の声や、声だけで現場を回す影MCを想像すると、わかりやすいかもしれない。

 エフェクターで声質が変わるから、俺だと気付いている人はほとんどいないと思う。番組は、俺であることを明かしていないので、「とある番組」とだけ付しておく。

 その仕事に、大きなやりがいを感じている。どんな仕事でもありがたいわけだから、仕事である以上、すべてやりがいはある。でも、その声の仕事は、今まで感じたことがないような責任感を覚えている。予感めいたものというか。

 VTRを見て、それに対してコメントを言う。コメントは決まっているわけじゃないので、アドリブになる。

 もしかしたら、VTRを見てコメントを出すだけだから、視聴者の中には「楽じゃん」と考える人もいると思う。でも、俺からすれば、こんなにも一つ一つのVTRに対して、抜き身の刀で向かい合うような緊張感はない。

 YouTubeでバズった動画をテレビで流す。人のふんどしならぬ、人の動画で相撲を取るな――なんて思われたくないから、スタッフ陣の意気込みもすさまじい。今までにないような番組にしたい。良いものを作り上げよう。そんな気概や愛が伝わってくる。その熱に俺もおかされ、一つひとつのコメントに生き死にをかけているかのような自分がいる。大げさかもしれないけど、大げさじゃない。

 テレビは進化している。今の時代、「はいどうも! 〇〇(番組名)、今週もはじまりました」といったオープニングは必要ないそうだ。テレビも現在進行形で戦っていて、視聴者を飽きさせない、振り向かせるために奮闘している。

「ナレーションは制作サイドの声でしかない、 やっぱり演者の生のコメント力には勝つことができない」。制作サイドからそういった声をかけられると、やる気が出ないわけがない。 ナレーションがあるのか、ないのか、そんな些細なこと一つとっても作り手のこだわりがある。想像以上に渦巻いている。

 この番組では、いつコメントを求められるかわからない。振られるときもあれば、振られないときもある。いつも追い込まれている。

 この声の仕事は、スタジオの雰囲気が見えない。あえて俺が家にいるときのような感覚でVTRに集中できるよう、別室でスタンバイしている。いつ銃弾が飛んでくるかわからない。遠くの方で砲弾の落ちる音が聞こえる。信じられないくらいカロリーを使う。だからなのか、楽屋に弁当がたくさん置いてある。

 別室にいる俺は、収録を終えると、番組共演者とは、誰とも会わず、誰にも会わないまま帰る。アサシンのように家路につく。

 棋士は一局終わると、体重が数キロ落ちているらしい。頭を極限まで使うと、人間は信じられないくらい体力を持っていかれることを、初めて理解した。でも、このひりつくような感覚は、とてもやりがいがある。

 ビビる大木さんは、『トリビアの泉』の収録の際、 VTRが流れている間もずっと話すことを心がけたそうだ。誰に言われるわけでもなかったけど、タモリさんもいるスタジオの中で VTRが流れている最中の空気を作りたい―― その一心から自主的にやっていたそうだ。誰も気に留めないかもしれない。でも、それをがんばっていたから、今の自分があると振り返っている。 

  Hey! Say! JUMPとジャニーズWESTが週替わりで出演していた『リトルトーキョーライフ』の麒麟・川島さんの影MCは、知る人ぞ知る達人の技だった。あの経験があるから、今の川島さんの大活躍があるんじゃないか……なんて勝手に思っている。

 誰も気に留めないかもしれないことこそ、とても大事なことだと思う。自分にとって、この仕事はそういう仕事だと勝手に思っている。芸歴20年を超えて個人技を鍛える機会なんてそうそうない。まだ上手くなれるかもしれない。番組に恩返しができたら。来年は、そういう一年にしたい。

普通の感覚でいることは大事だけど、それ以上に芸人は浮世離れてなんぼってところもある<徳井健太の菩薩目線第119回>

2021.12.23 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第119回目は、喫煙所でのある出来事について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

『菩薩目線』でもたびたび触れているお金のこと。やっぱり思うところが多分にある。

 その日は、ABEMAの競輪番組の収録日だった。ゲストとして参加するグラビアアイドルの女の子が退屈にならないように、それでいて競輪ファンが楽しめるようにできれば――、そんな気持ちでやらせていただいている。グラビアファンと競輪ファンの潤滑油になればと、時折、笑いを織り交ぜながら収録しているわけだけど、当たり前だがギャラが発生している。

 出番を控えていた俺は、スタジオの近くにある喫煙所でタバコを吸っていた。喫煙者には世知辛い世の中。スタジオの近くには、小さな喫煙所が一つあるだけ。これから番組に出る、あるいは関わっているという人は、すべからくその喫煙所にやってくる。

 若手芸人……といっても年頃は、俺とそんなに変わらないくらいだろうか。ほとんど接点を持ったことがない芸人たちが、喫煙所にぞろぞろとやってきた。吉本所属ではないことはたしかだった。

 何かのオーディションでもあったのだろうか。ABEMAの収録でやってきただろう彼らは、世間的に言われている「売れていない」という領域に属する芸人たちだと思う。俺も、世間的には同じように見られているだろうから、彼らをくさす気持ちは一切ない。描写をするとき、「売れていない」と書くのがもっとも伝わるだけであって、それ自体どうかと思っている。

 あまり大きくはない喫煙所だから、全員は入れない。列を成す形で彼らは待っていた。

 紫煙が舞う静かな空間。ポツリと、俺の隣にいた芸人の一人が、「どうですか最近? 水道管の仕事って入れてます?」と話し出した。

 『いや~あんまり入れてないんだよね』

 「あれってマックスどれくらい入れるんですか?」

 『月20は行けると思う。その合間に Uber もやってるから、合わせると月30万円ぐらいは稼げるんだよ』

 「そうなんですか。 Uber ってコツとかあるんですか?」

 『ああ、あるよ』

 ――。耐えられず、タバコをもみ消した俺は、外に出ていた。水中にいるような息苦しさ。よりによって喫煙所。これが営業の楽屋などであれば、ハレの雰囲気が充満している場だから受け止め方にもバラエティ性が生まれる。

 だけど、静寂に包まれた世界の片隅で、芸人のリアルを聞くのは覚悟がいる。たまたま聞いてしまった実情ほど、苦しいものはない。

 本人が幸せだったらそれでいいんだ。もしかしたら達観しているのかもしれない。お笑いは生業じゃなくて趣味――そう割り切っている可能性だってある。お笑いは、たしかに楽しい。だから、やめるタイミングがなかなかわからなくなる。でも、趣味として続けるなら、こんなに幸せなものはない。そう割り切れたら。

 番組収録でお金をもらう仕事に対して、俺は「ありがたい」と口にしているけど、喫煙所の残響が跳ね返ってくる。本当の意味でそう思っているんだろうかと自問自答してしまった。

 この収録を何回か行えば、バイトに明け暮れながらもお笑いを愛してやまない彼らの一カ月と同じになる。でも、それは言いっこなし。それが人生だ。 明日は我が身。

 普通の感覚でいることは大事だけど、それ以上に芸人は浮世離れてなんぼってところもある。

 1時間で終わる仕事だけど、たった5000円か……なんて考えることもある。でも、時給1000円の仕事だったら5時間働かないといけない。

 1日1万円を稼いだとしても、飲みで15000円を使ってしまったら5000円のマイナスになる。「だから今日は1万円以内で収めよう」。若い頃は、そういう生き方はしたくないと心に決めていた。

 歳を重ねていくと、世の中のことが分かってくるからか、時間やお金に対してぐるぐると考えてしまう。ぐるぐるぐるぐる考えるのは必要なことだと思いたい。でも、貧乏臭くならずに。

 

 

※徳井健太の菩薩目線は、毎月10日、20日、30日公開予定です

『徳井の考察』感想戦生配信は、お笑いのビッグイベントだけに特化したほうがいいのか問題<徳井健太の菩薩目線 第118回>

2021.12.10 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第118回目は、笑いを語ることについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 徳井健太のYouTubeチャンネル『徳井の考察』。その特別編として、『キングオブコント2021』の感想戦生配信を行った際、ありがたいことに500~600人ほどの人が集まってくれた。

 生配信は初めてのこと。この人数が多いのか少ないのか、まったくわからないまま終えたけど、なんにしてもとてもありがたいことだと思っております。改めまして、見てくださった皆さん、ありがとうございました。

 配信後、マネジャーから、「こんなに集まるとは思いませんでした。吉村さんが、他の芸人さんを5~6人ほど集めてゲームの配信をしても500人くらい。私、なめてました」と言われた。――なめられていたのか。すごいこと言うもんだなと思いながらも、「500~600人はすごいのか」なんて考えてしまう俺もいて、次はどんな生配信をしたら面白いか、少し楽しみになった。

 そこで、京アニが手掛ける話題のアニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を題材に生配信をしてみることにした。

 この作品は、千鳥のノブさんと飲んだとき、「めっちゃいいから見てくれ」と言われたこともあって、とても気になっていた。しかも、金曜ロードショーで放送されるとあって、タイミング的にも申し分ない。「これだ」と思った俺は、金曜ロードショー明けに感想戦生配信を行うことにした。

 30人しか来なかった。

 驚いた。マネジャーの「なめてました」が正しかったんだなと痛感した。それにしてもだよ。こんなにも落差があるんだろうか。

 そういえば今年2月に下北沢 B & B で開催した配信イベント『エンタメパンチライン』の配信チケットも20枚ほどしか売れなかった。膝が震えた。芸歴20年もやってるのに。

 このとき俺は、「食べログの点数の見分け方」をテーマに話した。 「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」と「食べログの点数の見分け方」を経てわかったことは、俺に求められているのは圧倒的にお笑いの考察なんだということ。わかってはいたけど、お笑い以外の話となると、こんなに集客率が落ちるとは。みんな、正直だ。

 裏を返せば、大きな大会の後に感想戦を配信すれば、それなりの集客が見込めるということかもしれない。

 ありがたいことに、お笑いを論じてほしいといったオファーも少なくない。先日は、鈴木おさむさんがMCを務めるBSフジの『冗談騎士〜お笑いネクストジェネレーション!秋のユニットコント祭り〜』にゲスト出演し、コントの総評を行うだけでなく、鈴木おさむさんと対談させていただいた。

 対談だけでも緊張するというのに、俺たちを囲むように配置された客席には若手芸人がどっさりと座っていて、真剣に耳を傾ける。監視されているような緊張感。その視線が生々しい。お笑いにもランバージャックデスマッチがあるんだなって、おののいてしまった。

 俺自身は、賞レースで何か結果を残してるわけではない。漫才やコントにしたって、「鶴」のネタ一本でルミネの3ステージをこなすようなコンビだ。かれこれ、もう10年くらい「鶴」一本でやらしていただいている。

 そんな車検も通れないだろう古びたネタしかしていない俺が、ひとさまの漫才やコントを見て、何かをアドバイスする。冗談にもほどがあるし、「お前に言われたくない」と思う人も、きっとたくさんいるだろう。俺だってそう思う。

 そんなことを話したら、当コラム担当編集A氏が、次のような視点で話し始めた。

 「そうやって“お前が言うな”と批判する人は、プロスポーツにおける指導者に対しては何て言うんだろう? たとえば、ヨーロッパのサッカーでは、決して一流とは言えない選手が名将になるケースが珍しくない。名古屋グランパスを指揮したベンゲルも、自らを“三流選手だった”と回想するモウリーニョも、選手としては大成しなかったけど、指揮官として歴史に残るような結果を出している。名選手が名監督になるとは限らない。お笑いの世界でも、そういったことがあると思うんだけど」

 単純に「なるほど」と思った。俺が名伯楽になれるかどうかはわからないけど、たしかにスポーツの分野をはじめ、さまざまな領域で「やる」のが得意な人と、「教える」のが得意な人がいる。俺は、自分ではできないことを、未来ある人たちに伝えて、少しでも世の中が面白くなったらいいと願っている。学校の先生も、そういう気持ちで生徒たちと向き合っているのだと思いたい。

 この後に控えている 『M-1グランプリ』。その感想戦を、『徳井の考察』でやったらどれくらいの人が集まってくれるんだろう。『女芸人No.1決定戦 THE W 』や『R- 1グランプリ』、『 ABC お笑いグランプリ』、『上方漫才大賞』だってある。なんでも、BSフジにはブレイクできていない芸歴20年以上の芸人しか出場できない『お笑い成人式』なる奇祭があるらしい。お笑いって、やっぱり文化なんだなって思う。

 そして、お笑いについて話すのはやっぱり楽しい。もしよければ、そんな『徳井の考察』感想戦生配信を、楽しみに待っていただけたら幸いです。

 

※徳井健太の菩薩目線は、毎月10日、20日、30日公開予定です

千鳥・大悟さん、麒麟・川島さん、劇団ひとりさんに共通する“シルクタッチ”な笑い<徳井健太の菩薩目線 第117回 >

2021.11.30 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。最新回では、“シルクタッチ”な笑いについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

ご存知の通り、俺はテレビばかり見ている。千鳥さんが MC を務める『クイズ!THE違和感』を見ていたときのこと。

その日は、くら寿司の特集をしていて、「本当は存在しないくら寿司の商品を選んだらアウト」といった趣旨のクイズが行われていた。正解するとご褒美として寿司をいただくことができるという内容だったと思う。

出演者の一人である前田敦子さんが、ご褒美としてシャリの上にあふれんばかりのネタが乗っかったお寿司を頬張る――そういう瞬間があった。その寿司には、タルタルのようなソースがたっぷりかかっていて、俺は「これをきれいに食べるのは難しいなぁ」なんてことを思いながら画面を見つめていた。

案の定、あっちゃんの口元にはタルタルがついてしまった。おそらく、編集上でカットされているんだろうけど、スタジオではそのタルタルについて丁々発止が行われたのではないかと思う。オンエア上では、大悟さんの一言が乗っかっていた。

「顎の下に寿司をつけちゃうぐらい美味しいんやわな」

ウケにいくトーンでもなく、下げにいくトーンでもない、隣人のようなトーン。テレビを見ていた俺は、なんて上品なんだろうとうっとりしてしまった。

「あっちゃん、ここに付いてるよ」とさりげなく教えてあげることが一番優しいようにも感じられる。でも、これだと笑いにならない。だからといって、笑いを取りにいこうと思うと、「美味しいのは分かるけど、がっつきすぎだよ、あっちゃん!」という具合にウケのトーンで言い放つことになる。こうなると下品な笑いの取り方。自分の手柄にしてしまうケースになってしまう。

ところが、大悟さんはそのどちらでもない全員の気持ちをくみ取りながら、あっちゃんに対しても気を配る。さらには、スタッフは笑いどころとしておいしい。そんなフォローをたった一言に集約させ、笑いに変えてしまうのは、同業者である俺からすると、ものすごいことであり、ただただ感嘆してしまう。

大悟さんと仕事を一緒にさせていただくと、上品なフリを俺に対しても共演者に対してもしてくれる。大悟さんは、北木島という島育ちだからやんちゃでワイルドなイメージが先行していると思う。だけど、ワイルドとはほど遠いくらい上品な人でもある。

優しいという解釈をどう取るか――。

たとえば、車道側を歩いている女性に「危ないよ」と声をかけ、強制的に車道から遠ざける……これは優しいんだろうか。優しさというよりも、ごくごく当たり前のことでしかないわけで、これを優しいと解釈すると、すぐ人に騙されるのではないかと心配になってしまう。

俺は、優しさというのは、ユーモアと隣り合わせになっているものだと思う。気が付いたら、「あれ、私、車道じゃない方を歩いていたな」と感じ、よくよく考えたら「あの一言がきっかけだ」、そう自然に思ってしまうのが、優しさだと思う。

先の大悟さんのさりげない一言しかり、もっと世の中は気が付いてほしい。でも、あまりにもシルクのように肌触りがいいものだから、タッチされたことに気が付かない。気が付かないから、気が付かれないんだろう。

肌触りの良いシルクタッチ、かつ面白いコメントを出せる人って、芸人の中でもごくごく限られている。パッと思い浮かぶのは、麒麟の川島さん。そして、劇団ひとりさんなどなど。

川島さんが、現在『ラヴィット!』 でMC をしてるのはものすごく納得だし、ひとりさんが 『クイズ!あなたは小学5年生より賢いの?』でMCをしているのも、冷や奴に醤油をかけるくらいごくごく当たり前のことに感じる。

『あなたは小学5年生より賢いの?』で、すべての牙を抜いた状態でMCをしているひとりさんは、モンスターだ。どうやったら、あんなに総入れ歯みたいに牙を抜くことができるのか、理解ができない。普通なら、“オレ、面白いですよ感”が残ってしまうけど、あの番組におけるひとりさんは1ミリも出すことなく、凡人アナウンサーのふりをし続けている。

そうかと思いきや、『ゴッドタン』ではすべての毒を巻き散らしていく。そして、 デトックスできたことに満足したように、『あなたは小学5年生より賢いの?』で凡人アナウンサーに化ける。ゴールデン番組でしか劇団ひとりさんを見ていない子どもは、「面白くない人」と認識している可能性だってある。

劇団ひとりとはよく言ったもの。一体、一人で何役こなしているんだろうと思う。コントの中だけではなく、仕事でも百面相。あれだけ役柄を循環させているんだったら、最終的には土に還って、死体も残らないで消えていくんだと思う。劇団ひとりこと川島省吾は、かっこいい芸人だ。化ける人だから、モンスター、化け物に違いない。

そして、カワシマって何者なんだろうと思う。

ひとりさんも、くっきー!さんも、麒麟の川島さんも、みんな「カワシマ」だ。カワシマって名前は、お笑い界の中では、ワンピースでいうところのDの一族のような存在なんだろうか。どうしてこんなに異才ばかりなんだろう。

徳井健太の菩薩目線 第116回 東京NSC5期生の功か罪か? 厳しさを失わせてしまったのかもしれない。

2021.11.20 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第116回目は、自分たちの世代で変えてしまったことについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

芸人の世界は、先輩後輩――縦の関係が厳しいと言われる。
縦の関係性を重視しない事務所もあるけど、吉本に関してはその通りだろう。
だけど、東京NSCに関して言えば、昔と今とではだいぶ変わったように思う。
その境目に、俺たちはいるような気がする。

東京NSC 5期生である俺たちは、一つ上の先輩である4期生にインパルスやコンマニセンチといった面々がいて、1期性には品川庄司、2期生にはハローバイバイという具合に、厳しく、怖い先輩が少なくなかった。先輩から呼ばれたら、「行かない」という選択肢はない。そんな雰囲気が当たり前だった。

当時、東京NSC 5期生である俺たちは、まったく期待されていなかった。前述したように1期上である4期生にはインパルスの他に、ロバートや森三中といった天才的な面子が揃い、“花の4期”なんて呼ばれていた。1期に一組スター候補がいればいいという状況下で、あまりに4期生は豊作の年だったからだ。

だからなのかわからないけど、歯牙にもかけられない俺たちは、どこかさめているところがあって、先輩との付き合いに対しても、妙なフラットさがあった。いま思い返すと、5期生は意図的にそういうスタンスを取っていたような気がする。

「来い」と言われても、適当な理由を作って「行かない」。それまで続いていた不文律を破り始めた。ただ、綾部だけは関係性にうるさく、律儀に先輩と接していた。

そんな俺たちに続くように、後輩であるロシアンモンキーやアームストロング、LLRらも先輩たち――、というか5期生とフラットに付き合うようになった。彼らもまた、先輩に対して過剰な意識を働かせなくなっていった。

俺はそういった関係性が好きだったけど、いま改めて考えるとはたしてそれが正しかったのか? なんてことを考えてしまう。

上からの教育を受けたことで、自分たちが下の人間にも同じように教育を加えるといった連鎖を断ち切ったところはあったけど、切ったら切ったで本当に秩序がなくなってしまった。秩序と言うか、あるべき関係性が。

例えば、先輩が後輩におごるということは暗黙のルールになっている。でも当時、俺たち5期生は本当に金のないときは、後輩から金を借りたし、割り勘にするといったことも珍しくなかった。先輩後輩の関係から仲間の関係になってしまったとも言える。

その傾向は、その後の期にも浸透し、9期生と10期生の間にはほとんど上下関係はなかったように感じられるほどだ。 4期生と5期生の間には、驚くほど溝があったのに。1期生なんて殿上人だと思っていたのに。中学生のとき、中学校1年生と中学校2年生ではまるで雰囲気が違い、中学校3年生ともなるとエンカウントすることが恐怖体験。そんな感覚が、俺たちを機に、どんどんどんどん浅くなっていった。

ヨシモト∞ホールへ行くと、みんなが仲良さそうにしてるのはいいことだ。風通しは良い。でも、緊張感が無くなってしまったような気がする。まぁ、当事者である俺が言うのもなんだけど。

ぴりついた雰囲気は、成長を促進させる可能性を持つ。同時に、トラウマになってしまう可能性もあるから考えものだけど、緊迫しているからこそ頭をフル回転させる。実際、東京NSCにおいては、10期生のオリエンタルラジオやはんにゃが登場するまで、若手のスターは生まれなくなってしまった。関西では次から次へとニューカマーが出現することを考えると、上下関係をなくすというのは、下が育ちづらくなる一因なのかもしれない。これは組織論でも同じことが言えるような気がする。

俺は、NSC 2期生であるカリカさんが大好きだったから、勝手にカリカさんのライブに行って手伝ったりしていた。すると、自然に上下関係が生まれ、たくさんお二人から学ぶ機会を与えてもらった。当時の俺は、上下の環境がないなら自ら作りに行くしかない――なんてことは考えていなかったけど、結果的にそれが大きかったように思う。やっぱり圧がないと売れるまでの土壌が形成されないのかもしれない。事実、先輩と最も付き合っていた綾部が、ピース結成以前から頭角を現していたわけで。

関西から次々に勢いのある若手が登場するのは、そういった厳しい関係性、そこから育まれる圧みたいなものがうまく作用しているからだとも思う。普段の付き合いの中にある厳しさが、漫才やコントに活かされ、平場にも還元される。

やっぱり怖さって、それなりに必要な要素なんだろうなと思う。これはお笑いだけじゃなくて、あらゆることに言えること。優しさはとても大事なことだけど、同時に怖さがなければ、 人間のどす黒い感情は爆発できないのだと思う。

徳井健太の菩薩目線 第115回 人は誰でも、誰かの何かになっている可能性がある。全身がんの女の子との思い出。

2021.11.10 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第115回目は、10年前のとある出来事について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

テレビ朝日で放送されている『かまいガチ』をよく見る。

千鳥さんの番組もそうだが、スタッフがウケている、ウケていないではなく、二人が“面白い”と感じている瞬間を感じられるバラエティは面白い。そこに、コンビ間の信頼関係が伝わってくるからだ。

『かまいガチ』を見すぎている影響からだろうか。番組内で濱家がよく作る料理を、自分でも作るようになってしまった。とても美味しい。その中で、下積み飯という回があった。

彼らが売れてないとき、天竺鼠――川原と瀬下が暮らしていた部屋、通称「天竺ハウス」は、同期のたまり場だったそうだ。

鎌鼬(当時)、天竺鼠、藤崎マーケット・トキらが、濱家の作った料理を囲む。

売れない同期同士で、同じ釜の下積み飯を食らう。そんな弱火の時代に、あるとき、トキがロックバンド『ザ・マスミサイル』の「拝啓」という曲を聴かせたと話していた。

それから十何年後。売れっ子となった彼らが再び「拝啓」を聞く、というのが今回の企画のクライマックスだった。山内は号泣していた。

もしミュージシャンだったら。

こんなにうれしいことはないんじゃないかなと思った。精神や時間、いろんなものをすり減らして作った曲が、 かまいたち、天竺鼠、 藤崎マーケットら売れない時間を過ごしていた芸人たちを支えていて、そのメッセージが十何年後に届く。

こんなにパフォーマンス冥利に尽きることはない。そう考えると、芸人の漫才やコントも、もしかしたら誰かの根幹を縁の下で持ち上げてるのかもしれない。

でも、作った側の当事者には、今はまだ届いてこない。時間差が、どうしても生まれてしまう。だから、ずっとわからないままだってある。 

ちょっと遠い昔。全身がんにおかされた10代の女の子とフジテレビで会ったことがある。どういった経緯でそうなったのか、俺にも分からない。カメラが入っているとか番組で取り上げるとかではなく、プライベートな取り組みだったと聞く。「誰か好きな人に会えるなら誰がいいですか?」と聞くと、その子は俺の名前を挙げてくれたという。平成ノブシコブシではなく、徳井健太の単独指名。

当時の俺は、『ピカルの定理』に出演していた頃だった。もしかしたら、ピカルがきっかけだったのかもしれない。でも、当時の俺はまだまだ尖っていて、ヨシモト∞ホールのファンに向けて「差し入れはいらない」と念を押して繰り返し、「仮に持ってくるにしても酒か金券」と明言するような輩だった。

『ピカルの定理』の収録の休憩中。ほんの短い時間だったと思う。フジテレビの一室に、お父さんとお母さんとその子がやってきた。

彼女は、「徳井さんは物をいらないっていうから」と気恥ずかしそうに口を開くと、俺に焼酎と金券をプレゼントしてくれた。全身がんの10代の女の子から手渡された焼酎と金券――。

申し訳なさしかなかった。でも、手に取らないと、もっと申し訳ないと思って、余命を告げられている子から、俺は焼酎と金券を受け取った。

あれから10年経って、俺は40歳になった。尖りは、気が付くと丸みを帯びていた。いろいろと批判の多いお笑い業界だけど、あの子が会いたいと言ってくれていた以上、どれだけつまらないと言われてもやり続けないといけない。そういう感覚がやっぱりある。いい話をしたいわけじゃない。だけど、事実。事実は耳を塞ぎたくなるから疎まれる。でも、事実だから言葉にできる。

一緒に写真を撮ったりして、その子は喜んでいたように思う。ただ、そのときの俺はとてもひねくれていて、「なんで俺なんだろう」ということで頭がいっぱいだった。もっと考えられることがあったと思う。今も申し訳なく思う。

そのときにしか出てこない言葉や接し方もあるんだろう。30歳の俺と、当時のその子。その瞬間、瞬間が大事なのだとしたら、必要以上に卑下することでもないのだろうか。あの瞬間は、何度だってよみがえる。俺も、誰かの何かを支えているのかもしれない。なんてことを気が付かせてくれる。

たくさんの人から好かれることも素敵だ。でも、たった一人。その一人からとんでもないエネルギーを、何年か経って受け取ることもある。

人知れず、誰も見ていないところで、名もなき人が涙を流したり、喜んでいたりする以上 、どんな理由があってもやめるわけにはいかない。何かを表現するというのは、そういうことなんだなって、『かまいガチ』の下積み飯を見て再確認した。

徳井健太の菩薩目線 第114回 高級車両が配車されるMKタクシー。究極のプライベート空間。一度乗ると、もう戻れない。

2021.10.30 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第114回目は、MKタクシーについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

MKタクシーがめっちゃいい。

昔、渡辺直美が「MKタクシーしか乗らない」と話していたことがあった。ようやく、その理由がわかった。他のタクシー会社にはない、圧倒的な快適感がある。

自宅からタクシーで移動する場合、迎車(配車)してもらう形で目的地まで行くことが多い。一般的に、タクシーの配車料金は300円ほどだと思う。一方、MKタクシーは、配車1台につき500円かかる。

ちょっと高いのには理由がある。

東京で MKタクシーを呼ぶと、 ベンツ、レクサス、アルファードなど高級車両しか来ない(大阪や名古屋などでは異なるらしい)。しかも、コンセント、無料Wi-Fi、TVが完備されている。ホテルが自宅までやって来るんだ。配車料金こそ高くなるもののロールスロイスまで呼ぶことができるという。同車の乗り心地を知りたければ、実はMKタクシーが数千円で叶えてくれる。

予約を取る際は、乗車する人の名前と目的地を伝える。そのため、乗車してから目的地やルート確認などをすることはない。そう、あの煩わしいやり取りがが一切ない。エスコートされ、乗車すれば、目的地まで一直線。極端な話、一度の会話をしなくても目的地まで着いてしまう。完璧なプライベート時間。

なんでもオリンピックの時期は、全く予約が取れなかったらしい。一度電話した際、「予約が取れない」と言われ、「今の期間は2日前には連絡がほしい」と釘を刺された。それなりにお金を持っている人、もしくは関係者を送迎するためにこぞってMKタクシーが使われたのかもしれない。

MKタクシーは、他社タクシーのように「野良」がいないはずだ。基本的に予約をして来てもらう。他のタクシーのように、町を回遊していることはない。タクシーを必要としている人のためだけに動く。なんだかプロフェッショナルだ。

このコラムでも書いてきたように、タクシーでは良いことも起これば悪いことも……どちらかというと後者の方がよく起きる。道をよく把握していない人、やたらと話しかけてくる人などなど、わざわざ電車ではなくプライベートに特化したタクシーで移動しているにもかかわらず、電車で移動するよりも煩わしいことが発生しがちだ。

2回うれしくなるようなことが起こり、6回は何も起こらず、2回は面倒の極みのようなことが起こる。そういったタクシーも、エピソードを拾うという意味では悪くないかもしれない。MKタクシーは10回すべて何も起こらない。でも、とにかく居心地がいい。

そんなMKタクシーに乗ったときのお話。

車が到着すると、俺はわけのわからない高揚感を覚えていた。なんといってもベンツだ。同じタクシー代にもかかわらず、これから高級感に包まれながら目的地まで運んでくれる。

時間は深夜。目的地までのおおよその料金は理解している。ゆえに、料金を気にすることなく、車に揺られていた。到着。そして、俺は驚愕した。

普通のタクシーであれば、料金メーターが丸見えになっている。ところが、MKの料金メーターには、特注のポケットカバーのようなものが付いていて、料金が見えない仕様になっていたのだ。会計時に、はじめてそれが明かされる。御開帳である。まるで俺を運んでくれたタクシー、その料金が秘仏であるかのような演出。何かとてもありがたいものを見たかのような気分になってしまい、俺は手を合わせたいくらいだった。

おそらく MKを選ぶ人に、細かな料金を気にする人なんていないと思う。それでも料金が上がっていく様子を見ると、気になってしまう人はいるだろう。そんなストレスを感じさせないために、こういった工夫がされているのだとしたら――。何より、料金を隠すだけで、こんなにも品が生まれるなんて驚いた。

格式のありそうな小料理店に行くと、時折、値段が書かれていない(もしくは「時価」と書かれている)ケースがある。不思議なもので、ボロボロな佇まいの居酒屋だったとしても、値段が書かれていないだけで緊張感が走る。「こんな内観をしているけど、きっとあの大将はどこかの名店で修業を積んだ料理の達人なのかもしれない」などと思い込んでしまう。値段が書かれていないだけなのに。

表記があれば、これは安いとか高いとか「コスト」の話をし始める。大人数で行くと、なおさら値段を気にしてしまう。だけど、高級というのは、安い高いの範疇ではなく、値段を払えるのは当たり前という前提の上に成り立つサービスなのだと気が付かされた。「パフォーマンス」を見てくれよって。料金を隠すという効果には、本来であれば感じることのできなかったifを演出させるのかもしれない。

まさかそれを、タクシーの中で体感するとは思わなかった。

何より運転手から、 運転手然としたオーラがあるのがいい。タクシーに乗ると、この人は別にタクシー運転手になりたくてなったわけじゃないんだろうな――なんて瞬間を感じることが少なくない。でも、MKタクシーに乗ると、皆、なりたくてこのハンドルを握っているんだろうなという気がする。気のせいかもしれない。だけど、どの業界にも“頂”があるんだなということを教えてくれるMKが、俺は好きだ。

徳井健太の菩薩目線 第113回 何も言えなくてサイゼリヤ。 腹が減りすぎていた俺も、間違えたサイゼリヤも、誰も悪くない。

2021.10.20 Vol.Web

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第113回目は、サイゼリヤでの出来事について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 こんなにも腹が減るんだと思った日があった。

 あまりにも空腹だった俺は、サイゼリヤに飛び込み、ドリアやら明太子パスタやらハンバーグ……計4品ほどを頼んだ。とにかく食べたかった。

 店員さんが注文を繰り返すと、間違いなくいま俺が口にした品々をなぞっていた。料理が運ばれてくるまで、両手にナイフとフォークを握ってスタンバイ。ザ・わんぱくを象徴するほど、とにかく腹が減っていた。

 見る人が見たら、俺は出所後のソレに見えたと思う。

 お待ちかね。いよいよ、料理がやってきた。でも……頼んでいないカルボナーラが目の前に置かれるではないか。当たり前のように店員さんはサーブし、さっそうと厨房へ消えていく。

「すいません、頼んでないんですけど」と言おうとしたときには、すでにその背中は見えない。明太子パスタと間違えたんだろうか――。そんなことを思うものの、とにかく腹が鳴っている。鼻腔に美味しそうなカルボナーラの匂いが攻めてくる。

 俺は、「これを食べよう」と決めた。

 後ほど申告して、追加扱いしてもらえばいいだろう。そう思って、真ん中の卵を割ってカルボナーラ完全体を作り上げる。一口食べて、「さすがはサイゼリヤ、この価格でこの味はうまいよな」なんて悦に浸る。無性にドリア299円を食べたくなるときってあるよね。腹が減っているときに食べるご飯って、なんでこんなに美味いんだろう。

「間違えました」

 冷徹な響きを帯びつつ、突然、手が伸び、俺のカルボナーラは連れていかれた。ウソだろ。「すいませんでした」もなければ、リスニングも一切ない。強制連行されるカルボナーラ。

 クリームのついたスプーンを持ったままの俺は、「こんなはずかしめを受けることがあるのか」と愕然とした。子どもだったら泣いている。一口食べただけの目の前の美味しい料理を、何も言わずに強制的に取り上げられる……こんな経験あるようでない。 

 一体、どれだけの人が生きているうちに遭遇するだろう。一口食べて、何も言わずに取り上げられる――、もう毒味の世界じゃないか。初めて体験したけど、一口食べて皿を取り上げられるって、とっても辛いことでした。

 このことを『オールナイトニッポン0』で話すと、吉村も「たしかにそんな体験ないな」と頷いていた。めったに共感することのない俺たちが、珍しく共感した出来事。

 だって風俗みたいじゃない。羞恥プレイ。腹をペコペコにしたおじさんが、待ちきれなくて両手にフォークとナイフを握りしめ、たった一口で取り上げる。会計時に、レシートにオプション料金がついてないか確認したけど、別にそういうわけじゃなかったらしい。

 おそらく、そんなマニュアルがあるんだろう。間違えてサーブした料理は、有無を言わずに持って帰ってくる的なマニュアルが。じゃないと、説明がつかないくらい持ち去るスピードが早かった。

 本来であれば、手を付けてしまっているわけだから、「すいません……お代をいただいてもいいですか」。あるいは、「こちらが間違えてしまったのでお召し上がりください」などなどリスニングがあるだろうに。強制連行は、さすがに原理主義すぎる。

 でも、がっついていた俺もダサいし、注文が間違っていることを分かっていながら食べた俺も意地汚い。だからと言って、「ちょっと待って待って!」などと取り上げられたカルボナーラに対して声を上げるのも品がない。庶民の味方であるサイゼリヤに、反抗の意なんて持っちゃいけない。

 この前、アルタ裏で、ロックアイスに直接レッドブルとジンを入れ、袋ごとかき混ぜながらカブ飲みしていた人の姿を見て、下品の極みだと呆れた。

 同様に、消えゆくカルボナーラに対して、「あの!」なんて止めようものなら、俺もロックアイスレッドブル人になってしまう。品こそ最後の砦なんだ。

 その後、何のコミュニケーションもなく、頼んだ料理が次々と運ばれてきた。なんか悔しかった俺は、「カルボナーラを頼んでやろうかな」と思ったけど、理性がそれを許さなかった。結局、なすがままに食べ続けた。

 世の中に、答えがないことなんてほとんどない。だけど今日、サイゼリヤで起きたことは「答えがないこと」なのかもしれない。 誰も悪くないし、全員無罪放免。 何も言わずに強制連行したスタッフも、何も言えなかった俺も。何も言えなくてサイゼリヤ。

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