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令和の「つまらぬこだわりは身を縮めるだけだった」論【徳井健太の菩薩目線 第190回】

2023.12.10 Vol.Web

 

 奥さんは、シンガーソングライターをしている。若い時代に書いた歌詞が、「恥ずかしい」という。

 なんとなく分かる。僕たち芸人も、若手時代に作ったネタを、今そのままやれと言われたら、顔から火が出ると思う。

 だけど、彼女はあるとき、そんなつまらないこだわりは捨てようと思ったらしい。自分はシンガーだから、歌詞がどうであれ、歌いきることが仕事だとスイッチが切り替わったと教えてくれた。「すごいことを言うなぁ」と思った。

 若い時代は、ダサくて稚拙だ。

『ソウドリ』の「解体新笑」で、くりぃむしちゅーの有田さんと若手時代について話したことがあった。誰よりも自分が面白いと思わせたいし、誰かが笑わせるようなことを言っても簡単には笑わない。俗にいう、“とがり”が視野を狭くする。

 ある日、有田さんのマネージャーさんが、現場でめちゃくちゃ笑いを取るといったことが起きたそうだ。自分たちは、そのマネージャーを特に面白いと思ったことはないのに、現場は大ウケ。その日の自分たちよりも、明らかにマネージャーの方がウケていたと感じたという。

 マネージャーがマネージャーが笑いを取っている光景を見て、「学生時代は、今みたいな自分じゃなかったな」と思い出した。ケツを出したり、くすぐったり、そんな簡単なことでよかったのに、今はどうして難しく考えているんだろう。自分が面白いんじゃなくて、その場が面白ければ芸人じゃないのかって。

 それから、有田さんの意識は変わったそうだ。

「形」なんてないんだと気が付くと、もやが晴れる。それがわかるようになると、その場が面白くなればなんだっていいと気が楽になるし、誰かにパスもできるようになる。

 奥さんも、「形」にこだわることをやめたと話していた。形にこだわると、いろいろな可能性まで消してしまう。

 ミュージシャンは大変だ。僕たち芸人は、若手時代に作ったネタをやるとしても、部分的にアレンジすることができる。「あいつらネタを変えたな」なんて気が付くのは、一握りしかいない。

 でも、ミュージシャンはそういうわけにはいかない。歌詞や曲が記録として残っている。その曲を聞きたいファンからすれば、何かが変わってしまうことは、その人の原体験を否定してしまうことになりかねない。

 昔の曲を、あるタイミングからやりたがらなくなるのも、わかる気がする。歌いたくても歌う気にならなかったり、そのとき作った曲が今の自分と必ずしも重ならなかったり。何かを変えられないなら、押し入れの中にしまった方がいいかもしれない。売れていない頃に書いた曲は、そのまま何十年と残り続ける。そのあと、売れようが売れなかろうが、記憶にも記録にも。ミュージシャンがアーティストと呼ばれるゆえんだ。

 でも、捨てちゃいけない。そのときの感情は、いつかまた理解できる日が来るかもしれないから、昔の感情は大事に取っておいた方がいい。僕らで言えば、昔は純粋な気持ちで笑わせたいって気持ちがあったはずなのに、ある日突然、「面白いことを言いたい」といった鈍い気持ちに変わる。「笑わせたい、楽しませたい」という気持ちに戻ってこられるかどうか。戻ってくる日も、ある日突然。捨てたら、再会できない。

 僕の学生時代は、先生が嫌な顔をするような確信めいたことを言いたくて仕方がなかった。クラスメイトも、そんな自分に期待していた。

 芸人になって、いつからか面白いことを言おうとがんばったけど、それが無理だとわかった。本来自分が持っているもの、好きだったものはなんだろうと考えると、「面白いこと」じゃなくて、「確信めいたこと」をいう自分の姿だった。戻って来ることができた僕は、お笑いの分析をするようになって、今がある。とがっていたんじゃなくて、無理をしていただけだった。

 すべてをひっくるめて、自分の中で納得なのか消化なのか許容なのかわからないけれど、飲み込めたとき、形にこだわらない自分になれるんだと思う。

 

※徳井健太の菩薩目線は、毎月10・20・30日更新です。

死んだ可愛げ、よみがえれ感情 ~感情を表現する言葉をとっさに言える人について~【徳井健太の菩薩目線第189回】

2023.11.30 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第189回目は、感情の発露について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 感情の発露って何だろう。

 先日、コンビニへ行って、商品を買おうとすると、そこそこ長い行列ができていた。僕の前には、小学校高学年と思しき男の子を連れたお母さんが並んでいた。並んでいる最中、手持ち無沙汰になったんだろう。横にあるアイスが並ぶケースから何かを取ろうとしていた。その拍子、体勢がよろけたお母さんは、ラーメンが陳列している横の棚に軽く体をぶつけてしまった。

「あ~痛ッ~!」

 小さい声ではあったけど、お母さんは自らに何が起きたかを言い聞かせるように、そう声に出しながら体勢をもとに戻した。真後ろからその光景を見ていた僕は、「感情を表現する言葉が、僕はとっさに出てこないんだよな」と思いふけった。

 痛いと感じたとき。「痛い」と口にするか、しないか。僕の場合は、本当に激痛が走りでもしない限りは「痛い」という言葉が出てこない。感情を考えてからでないと、言葉として表に出すことがなかなかできない。

 多くの人は、それが本当に痛いかどうかは別にして、先ほどのお母さんのようにリアクションとして痛いという言葉を口にしたり、照れ隠しの意味を込めて感情を発露させたりすると思う。

 感情を言語化することで、その場の空気が和みやすくなるとは分かっている。

 かわいい赤ちゃんを見れば、「かわいいですね」ととっさに言える方が、場は和む。でも、「かわいいけどかわいいと言わないこともできるよな」などと、本当にどうでもいいワンクッションを入れてしまう自分は、無条件に「かわいいですね」が出てこない。不可解な間が生まれる。

 競馬をしているときもそうだ。そこそこ当たりの馬券を的中させても「やった!」と口に出さないので、買っていたことを気が付かれないことが多い。しばらく経って、話の流れの中で「俺も当てたんだよ」と伝えると、「え? 徳井さん、買ってたんですか? しかも、当ててたんですか!?」と驚かれる。馬券が当たっていても、外れていても同じ表情をしているから、不気味らしい。

 たしかにそうだよなって思う。ギャンブルに負けると、少なからず仕事に影響が出る。特に芸人は、営業であれ、舞台であれ、勝って出るのと負けて出るのとでは、その後のトークも変わってくる。仮に負けたとしても、腕次第で面白くできる。

「だから、仕事の前にギャンブルなんかしちゃダメだって言っただろ!」

 なんてつっこまれれば、笑いが生まれる。そういう意味では、勝っても負けても同じリアクションをしている僕には、そんなマジカルな笑いは生まれない。淡々と時間が流れていくだけだ。

 感情を表現する言葉をとっさに言える人は可愛げのある人だなと、ずっと思っていた。だから僕は、可愛げのない人間なんだなと感じている。

 いつからこんな癖がついてしまったのかと考えると、おそらく僕が小学生の頃に遠因があるような気がしてならない。

 何かに頭をぶつければ、僕も「痛い」と口に出していたに決まっている。だけど、ある日、それをクラスメイトにいじられた記憶がある。「徳井の真似! 「あ、痛ッ!」 ひゃはははは!」。妙な悔しさを覚えて以来、そういうことを言うのをやめようと思った、わずかな記憶がある。

 自分の感情を出すのはやめよう。おりしも、子どもながらに親の面倒を見なければいけない時代でもあったので、極力、自分の感情にフタをすることに違和感を感じなかったこともあると思う。

 うちの母親が亡くなったとき、ちょうど僕は『ピカルの定理』の収録中だった。誰にも何も伝えず、気が付かれないまま収録を終えると、葬儀をするために戻った。 

「あ~痛ッ~!」と言葉にしたお母さんは、恥ずそうにしながら笑っていた。そんなお母さんを見て、子どももケラケラと笑っていた。

 後ろに並んでいた僕は、その光景を見て、ほのぼのとしみじみがないまぜになったうらやましい気持ちになった。感情が揺れるのは尊い。最近は、ようやく僕も、とっさに揺れるようになってきた。

抱っこひもで赤ちゃん、下北沢の居酒屋【徳井健太の菩薩目線第188回】

2023.11.20 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第188回目は、赤ちゃんと行動することについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 赤ちゃんを育てている。一歳の赤ちゃん。

 僕は、ベビーカーに乗せることはほとんどせず、自分の体力が続く限り、抱っこをするようにしている。

 雀荘とパチンコをのぞいて、どこかへ一緒に行くときは抱っこ。買い物をするときも抱っこ。新幹線に乗るときも抱っこだ。ライブへ行くときも抱っこをしながら音楽を聴く。なんだったらビールも飲む。赤ちゃん(子ども)がいるから、何かを制限しようという感覚は無い。もちろん、それが赤ちゃんにとって良くないことであれば、自制するようにはしているけれど。

 先日、うちの奥さんと待ち合わせをする際、合流するまで小1時間ほどかかるというから、赤ちゃんを抱きながらどこかで時間つぶしをしようと考えた。ゲームセンターは良くないよなとか、いろいろと考えた結果、居酒屋で飲みながら待つことを決めた。

 1~2杯も飲めば、奥さんも到着するだろう。目についたお店の扉を開けると、待ち合わせる身としては理想的としか言いようがない、まったくお客さんがいない状況だった。

「この後、奥さんが来るので少し飲ませてもらってもいいですか」。そう断ると、奥の席へ案内された。

 着席してメニューを眺めていると、突然不安に駆られた。

「あれ? 俺って今、めちゃくちゃヤバい奴に思われてないか?」

下北沢の夜10時。おじさん一人が赤ちゃんを抱っこしながらガラガラのお店でビールを飲む――。はたから見れば、何かしら家庭の事情に瑕疵を持つ人に思われるかもしれないし、どうしようもなく酒が好きな中毒者に見えるかもしれない。

 お店に入るとき、「この後、奥さんが合流するんで」とは伝えたものの、それが本当かどうかは分からない。店員さんが僕のことをいぶかしげに思ったとしても反論するだけの証拠は、今のところまったく持ち合わせていない。不安に思えば思うほど、僕の顔はこわばっていき、不審者レベルは上がっていく。

 いま思えば、「この後、奥さんが合流するんで」も少し言い訳がましかったように思う。無意識の自衛本能。子どもの頃、エロ本を買う際に、聞いてもいないのに「兄に頼まれたんです」と言い訳してからお金を払った自衛本能。

 競馬場に赤ちゃんを連れて行ったとしても、こんなに不安に駆られることはない。だけど、赤ちゃんを抱っこしながら一人で居酒屋で酒を飲むことの背徳感は、想像していた以上にビリビリきた。遠くから、「家で飲めよ」という店員さんの視線を感じるのは気のせいかな。

 世の中って不可思議だ。お店で一人で飲んでいる男性が、実は赤ちゃんを奥さん一人に任せて、飲みに来ている可能性だってある。だけど、その男性は「一人で飲みに来た男性客」として切り取られる。僕のように、「抱っこしながら一人で飲みに来た男性客」の方が、世の中的には「?」が付く。世界はいびつで面白い。社会のボタンは、些細なことから掛け違えられていくのかもしれない。

 奥さんの到着が遅れるらしい。ビールを飲み終え、気まずくなった僕は、そそくさと店を後にしようと思った。腰を上げた瞬間、「今出るともっとヤバい奴になるんじゃないか」。僕はぐっと深く、その腰をもとの位置に戻した。正真正銘、一杯だけ飲むためだけに、赤子を連れてまで居酒屋に来たホンモノじゃないか。

 意地でも奥さんを待つしかない。気が付くと3杯ほど飲んでいた。2杯目からは、酒の力で襲い掛かる不安をごまかしていた。たった1つパズルのピースが足りないだけで、人間はとてつもなく不安になるようにできているんだと分かった。それから少し遅れて到着した奥さんの姿を見て、僕は見つからなかったピースをようやく見つけたときのようなうれしさを感じた。

 ホッとした安堵の表情を浮かべたのは、きっと僕だけじゃない。その居酒屋で働いていたスタッフ全員、胸をなでおろしたはず。「あの人は本当に奥さんを待っていたんだ」。最後のピースが見つかると、世界は元の姿に戻るのだ。

パリピ孔明、たまに後悔 春はあけぼの、僕はたわけ者【徳井健太の菩薩目線 第187回】

2023.11.10 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第187回目は、ドラマ『パリピ孔明』出演について、独自の梵鐘を鳴らす――。

『パリピ孔明』を見てくださった皆さま、ありがとうございました。そして、お邪魔しました。TOジャンプが、あんなに辛いものとは思いませんでした。

 以前、当コラム『汗だらけって、どんな化粧よりもかっこいい。あるドラマ現場で感じた花束みたいな関係性』でお伝えしたことは、このときのことでした。スタッフの皆さん、エキストラの皆さん、演者の皆さん、ありがとうございました。

 花束を渡されて、どう振舞っていいか分からなかった僕は、「いやいや」と毒にも薬にもならないクソ対応をしてしまった。だけど実は、もう一つ懺悔したいことがある。

 僕は、劇中に登場する仮面アイドルユニット「AZALEA(アザリエ)」の熱狂的な古参ファンとして出演した。ドラマを見た方なら分かると思うのですが、僕を取り囲むように、同じくAZALEAファンとして春雄・夏希・秋彦・冬実の4人がいたと思います。彼ら彼女らとはドラマの中で行動をともにすることが多かったため、撮影以外の場所でも話すことが必然的に多かった。

 僕と春雄、夏希、秋彦、冬実たち4人のシーンを撮り終えると、春雄が「徳井さん、もしよかったら一緒に写真撮りませんか?」と声をかけてくれた。灼熱の中、ともに戦い抜いた仲間みたいな演者だ。僕は、気持ちよく一枚の写真におさまった。

 ロケバスに乗り、宿泊ホテルに向かう途中、春雄が「徳井さん、さっきの写真どうします?」と尋ねてきた。

 撮影の合間、春雄はよく話しかけてくれた。彼はお笑いが好きなようで、「M-1の敗者復活戦のときって、どんな気持ちなんですか?」なんて質問してきた。「敗者復活戦に上がったことがない俺に聞くなよ」という言葉が出かけたが、はたから見れば気難しそうに見える僕に、あれこれと興味をもって話しかけてくる春雄を見ると、「渋いことを聞いてくるな」なんて思いながら、勝手に敗者復活戦に上がった設定で話をしていた。

 比較的なついてくれていたその彼が、「写真どうします?」と尋ねてきた。

 きっと春雄は、AirDropで写真を共有しましょうか?といったことを伝えたかったんだろう。でも、僕はそのAirDropとやらがいまいちよく理解できなかった。気が付くと、「うん。大丈夫。いいや」と断っていた。

 彼は、「あひはは!」と甲高く笑った。

 いや、正確に表現するなら、甲高いトーンで笑ってごまかした――と思う。その笑い声が、今でも耳にこびり付いていて、本当に申し訳ない気持ちになる。「断られた」というやり場のないくすぐったい感情を、たぶん、彼なりに暗くならないように表現した結果、受け身の取れていない笑い声となり、こだました。

「徳井さんらしい! ありがとうございます!」

 春雄はそう笑い飛ばしていたけど、僕は笑い飛ばすことができないことを、ずっと後悔している。僕たちAZALEAファンは、解散してしまったのだ。

 あの無理矢理笑ったような声のトーンは、「3日間、いろいろ話しかけたけど、何にも残らなかったのかな」という虚無の響きをともなっていた。ただ単に、写真を共有したかっただけなのかもしれないのに、僕が発してしまった「いいや」は、3日間を全否定するような突き放しと受け取られたのかもしれない。

 いい歳をした大人が、何をしているんだか。「AirDropとかよくわかんないからいいや」という部分指定が、彼には全否定に映ったかもしれない。伝え方を間違えたなって、本当に後悔している。

 今さら伝えたところで、申し訳なくなるだけだけど、ともに撮影に臨んだ春雄、夏希、秋彦、冬実たち。あのときは、写真をどう共有していいか分かなかっただけで、決してこの数日間を否定したつもりはないんです。本当に申し訳ないことをした。いつかまたどこかで会えたら、きちんとAirDropの方法を学習したので、間に合うようなら写真をいただけたらと思っています。写真を撮ってくれてありがとう。

愛と平和と金とエンタメ、その絶妙なバランスを「さよなら ほやマン」から教えてもらった【徳井健太の菩薩目線 第186回】

2023.10.30 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第186回目は、試写会について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 11月3日に公開されるMOROHAのアフロさんが主演を務める『さよなら ほやマン』の試写会へ行ってきた。

 アフロさんとは何度かお会いしたことがあり、「今度ご飯でも行きましょう」なんて話していたのに、口約束になってしまっていた。ごめんなさい。なのに、アフロさんは、「よろしければ試写会に来ませんか」と誘ってくれた。

 宙ぶらりんのような状況で、「~~しましょう(しませんか?)」と声を掛けるって、とても勇気のいることだと思う。おまけに、僕は気難しそうな雰囲気があると思うから、いろいろとアフロさんに気を遣わせてしまったなぁと申し訳ないやら、声をかけられてうれしいやら。

 試写会は、なんだか優しい空間に包まれている。試写会に来る人は、基本的に関係者やメディアにたずさわる人に限られる。これから、この作品に愛を注いで大きくしていこうという人たち、あるいはこの映画にかかわって、ものすごく汗をかいた人たち――。まるで、我が子を見守るように見つめている。愛と平和の約2時間。

 お金を使っている人と時間を使っている人と筋肉を使っている人は、エンターテイメントに優しい。たとえばお笑いのライブ。映画と比べるのも恐縮だけど、お金も時間も使って、そのライブに足を運んで、たくさん笑って、「面白かった」と言ってくれる。もちろん、中にはハズレもあるから、厳しく評すことだってある。お金や時間や筋肉(そこに来るまでの労力)を使っているんだから、「つまらない」と切り捨てたっていい。その感想は提言として、誰かの頭上に降りて来る。

 一方、無料で視聴することができるテレビとなると、なんだか優しさが消えてしまう。「もっと頭を使え」「○○はつまらない」などなど、その感想は上から目線で落ちて来る。

 どうして人は、お金を使わないものに対して厳しくなってしまうんだろう。逆に、どうして人はお金を使ったものに対して優しくなれるんだろう。愛を注いだ分だけ、思慮深さが生まれるのかもしれない。

 ネットニュースもそう。タダで読めるからなのか、やたらとコメントをしたがって、マウントを取りたがる。まるでお金を払って、時間を使って本を読んだかのように、あーだこーだと言いたがる。

 お金も時間も筋肉も使わない人のアドバイスや感想って、優しさがない。裏を返せば、優しさを育むためにはお金や時間や筋肉が必要なんだと思う。想像力は無料じゃないのだ。

 この世界でいろいろと仕事をするようになって、テレビはスポンサーさんがお金を提供してくれないと成り立たない世界だとしみじみ分かる。僕が若手だった頃、そんなことは一切分からなかったし、理解できなかった。お金=ギャランティー。その程度の認識しかないまま、芸人をやり続けていた。お金って直接的なお金と副次的なお金があって、後者の大切さを教えてあげないとダメだよなって、この歳になってようやく分かる。

 まだキャリアが浅い人には、お金の仕組みについて教えてあげた方がいいんじゃないだろうか。お金を出してくれる人がいるから、ライブやテレビに出ることができる。それってスポンサーさんだったり、足しげく通っているファンのおかげだよね。違う業界も、似たような構造があるはずだ。

 どれだけ面白いものを作ったって、それを表現できる場所がなければ、アンダーグラウンドで爆弾を作り続けているのと変わらない……かもしれない。別に、他者に感謝して芸を磨きましょう!みたいなことを偉そうに言いたいわけじゃない。そういう意識があるだけで、自分の選択肢って穏やかになるような気がするんだよね。

「丸くなったほうがいい」なんていう気はさらさらなくて、ふと立ち止まったとき、穏やかに考えることができるという選択肢を持つためにも、自分がいる世界の構造をきちんと理解しておくことはとても大切だと思う。

 お笑いだけを学ぼうとするなら、今はもうYouTubeにたくさん教科書になるような動画が散らばって落ちている。お笑いを教えるってことは、どうしたらウケるかだけじゃなくて、お笑いのシステムやお笑いのバックヤードも教えてあげないといけないんじゃないかな――なんてことを優しい世界を見て感じた。厳しさだけじゃ、もう想像力は育たない。

『音燃え!』で観た黒猫チェルシーさんが、僕はいまだに忘れられない【徳井健太の菩薩目線 第185回】

2023.10.20 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第185回目は、ライブシーンを盛り上げるにはどうすればいいかについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 北九州のライブハウスへ行くと、『恥骨』というバンド名の3ピースパンクバンドのフライヤーを見つけた。どっからどう見てもハードコア系のバンドで、「どうして恥骨って名前にしたんだろう?」と、ずっと気になってしまった。自分の知らない場所で轟音を鳴らしているバンドって、もっと知られてもいいのに。インタビューなんかできたら、きっと面白いんだろうなと想像した。

 そういえば昔、ジュニアさんがMCをやっていた『音燃え!』という音楽番組があったことを思い出した。日本全国の高校生バンドの中から日本一を決めるというコンセプトのもと、毎回、さまざまな荒削りの高校生バンドが登場していた。

 その中で、高校生とは思えないカリスマ然としたパフォーマンスと華を放つ、一組のバンドを見た。画面越しに映る「黒猫チェルシー」は、あまりに圧倒的な存在感で、まるで売れる気配のない芸人だった僕は、「こういうバンドが売れていくんだろうな。どんな風に売れていくんだろう」なんてワクワクしてしまった。人のことを考える余裕なんてないのに、ワクワクさせてしまう。やっぱり音楽って最高だよなって、テレビを眺めていた。

 数年後、タワーレコードだったかTSUTAYAだったかへ行くと、目立つ場所に「黒猫チェルシー」と掲げられたポスターとアルバムが並んでいた。「あれ? なんか見覚えあるな……あ! あの番組で見た彼らか!」。着実に売れるための階段を上っている彼らを見て、まるで遠い親戚のおじさんのように、「がんばってね」なんてつぶやいてしまった。

 お笑いもそうだけど、音楽も売れるまでのプロセスを共有することができる世界だ。でも、お笑いに比べると、なんだか音楽の世界は、その背中がずいぶん見えづらくなってしまったように感じる。

 子どもの頃や青春時代って、ライブハウスシーンで有名だったバンドやアーティストが深夜番組で取り上げられて、次第にメディアを介して羽ばたいていく――そんな姿をよく目撃していた気がする。ネクストブレイクの期待のアーティストを知る接点がそれなりにあって、『イカ天』や『えびす温泉』のようなオーディション番組も少なくなった。

 お笑いも『GAHAHA王国』のような勝ち抜き番組があって、若手が羽ばたいていくムーブがあった。音楽とお笑いはどこか似ていて、期待の新人を発見できる、そんな場があったから、僕もミュージシャンを目指すか、お笑い芸人を目指すかで迷っていたのかもしれない。

 でも、いつからか音楽の世界から、そうした番組を見かけることはなくなってしまった。

 ライブハウスシーンで注目を浴びているようなアーティストや、よく分からないけど活きのいいアーティストを見ることができるようなコンテンツって、そんなに需要がないんだろうか。

 たとえば、フットボールアワーの後藤さんや、バイきんぐの小峠さんのような音楽愛にあふれた人が、ライブハウスシーンで話題になっているアーティストを深掘りするとか、音楽好きの若手芸人が実際に地方のライブハウスまで足を運んでロケをしたりとか、現在進行形の音楽のかたまりみたいなものを知ることができる番組があったら、個人的には激推しコンテンツなのに。

 成長の過程を共有できるような音楽番組って、潜在的ニーズがあるような気がするだけど、ないのかな。たまたま見ていた番組から、めちゃくちゃ面白いネタが流れてくる。これも奇跡的な偶然体験だけど、めちゃくちゃかっこいい音楽が流れてくる方が、五感がざわつく。そういう飛び上がる体験って、むしろ今の時代にこそ求められている気がするんだけど。あくまで、気がね、気が。

 コロナ禍で、さまざまなライブハウスがライブ配信をするようになったそうだ。実際に訪れて体感する方が臨場感という意味では特別だろうけど、遠い場所で暮らしている行きたくても行けない人にとっては、新しい体験の仕方だよね。

 だったら、各ライブハウスに協力を募り、ライブハウスの店長さんが映像を提供しながらおすすめバンドをプレゼンするなんてこともできるんじゃないのだろうか。昔より、知らない場所でとんでもなくかっこいい音を奏でている人を知る機会は多いはずなのに、なかなか伝わってこない。

 あるミュージシャンの人と話す機会があって、お笑いと音楽の違いについて、僭越ながら意見を交わしたことがあった。そのとき、お笑いは横のつながりがあるけれども、音楽は強い横のつながりはなくて、同じパイを取り合う以上、ライバルになる。だから、徳井さんのように、「〇〇って言う若手芸人が面白くて、これから売れると思うみたいなことが言いづらい」と話していた。

 なんとかならないんだろうか。音楽が好きな関係者の皆さん、もっと光を当てられる方法を一緒に考えません?

ありがとうBiSHロス芸人。アインシュタイン稲ちゃんは、やっぱり男前なんだ。【徳井健太の菩薩目線 第184回】

2023.10.10 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第184回目は、「BiSHロス芸人」について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 9月21日に放送された、『アメトーーク!』の「BiSHロス芸人」をご覧になった皆さま、ありがとうございました。そして、今もまだ心のどこかにBiSHがとどまり続けている皆さま、一緒にがんばりましょう。

 どの番組に出るときも緊張感を抱えているけど、『アメトーーク!』となると、いつも以上に心臓がバクバクしてしまう。自分が好きなこと、自分が思い入れを抱いているものについて話す――、それってとても責任をともなうものだから。

 端から見ていると、好き勝手なことを言っているように見えるかもしれない。だけど実際には、公共の電波を使って、自分の思いを吐露したり、誰かの思いを乗っけて勝手に語ったりすることは、ものすごく神経を使う。結局のところ、自分が思っていることをそのまま吐き出す以外に解決策はないと分かっていても、うまく吐き出せるのか怖くなる。

 だからなんだろう、無事に終わったときの安堵感と言ったらない。自分が思っていたことを伝えることができ、収録そのものも皆さんのおかげで盛り上がったという実感があると、めちゃくちゃうれしいんです。

 興奮冷めやらぬまま、収録終わりにBiSHロス芸人の面々とお酒を飲みに行った。『アメトーーク!』収録後の飲み会でお酒を飲んでいると、いろいろなことを思い出す。ももクロ芸人として登場したものの、ももクロのヒストリーをうまく伝えることができずに後悔ばかりが頭によぎった反省酒。蒙古タンメン中本芸人として登場し、五明(グランジ)や向さん(天津)と夢が叶った歓喜酒。そして、前回の「BiSHドハマり芸人」でアインシュタインの稲田が放った覚悟酒。

 あの日、稲ちゃんは、「なんで、もっと頼ってくれないんですか? 今日の収録で『稲田頼むぞ』って言ってくれたら、もっとボケたし……俺、もっとやれますよ」と、酒を飲みながら話していた。

 少年マンガの主人公みたいなことを口にしていた稲ちゃんは、もちろん、今回の「BiSHロス芸人」にも名を連ねていた。

 をよぎり、今日の収録前は、4年前に放送された「BiSHドハマり芸人」のときのことを思い出していた。

 よく覚えている。

 BiSHロス芸人たちと、「今日の収録は良かったですね」なんて話をしながら、ノブさんの近況を聞いていると、あっという間に1時間くらいが過ぎた。そろそろお開きという雰囲気が漂うと、稲ちゃんが突然、「前回飲んだときのことを覚えてますか」と口を開いた。

「めちゃくちゃ覚えている」と、ノブさんも俺もうなずいた。覚えているどころか、ずっと気になっていた。

「だから、今回、僕は自分から前に出たんです」

 そう稲ちゃんは思いを吐き出した。収録中、「今日の稲ちゃんはものすごくボケるな。かっこいいなぁ」と感心していた。そうじゃなかった。前回のことを稲ちゃんも覚えていて、その思いに決着をつけるための今日の収録だったんだと思うと、僕たちは泣いていた。

 前回の反省を自分で越えていく。分かっているけれど難しい。できない。でも、稲ちゃんは4年越しで実現させた。あのときの忘れ物を取り戻したんだなって。

 飲み会が始まって、本当はすぐにでもその話を切り出したかったと思う。だけど、調子を合わせて一緒に笑って、ここぞというときにぶちまける。やっぱりアインシュタイン・稲田直樹は、男前だなと思った。本番前に、「あのときのことを覚えてますか。だから、今日は自分で攻めます」と伝えることだってできたはずなのに。心に秘めたものを抱えながら収録中、ずっと一人で戦って、俺たちを盛り上げてくれていたんだって思うと、言葉にならない。ありがとう、稲ちゃん。あなたは戦士です。

永遠の師匠、元カリカ・林さんとの再会。歳を重ねるって、なんて尊いことなんだろう。【徳井健太の菩薩目線 第183回】

2023.09.30 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第183回目は、再会ついて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 僕はいま、鈴木おさむさんが火曜ヒューマニスタ(パーソナリティ)を務めるbayfm『シン・ラジオ―ヒューマニスタは、かく語りき―』に、「週替わりパートナー」として出演している。

 その日は、おさむさんが体調不良ということで急遽欠席。ブースの中には、僕と、電話出演の予定だった南房総市議会議員の林よしはるさんの二人だけがいた。

 林さんは、南房総市千倉町出身のおさむさんと高校の先輩後輩という関係性であり、現在は、南房総市をPRするため奔走している。でも、僕にとっては、お笑いコンビ『カリカ』の林克治さんが、目の前にいる感覚だった。

 NSCを卒業し、「平成ノブシコブシ」を結成した直後から、カリカのお二方には本当にお世話になった。初めてコントを見たとき、衝撃が走った。こんなに面白いコントをする人たちがいるのか――。自分の中で、「コント=カリカ」という基本原理ができあがるくらいかっこよくて、腹を抱えて笑った。「この人たちと仲良くなりたい」、そんな甘い考えも働いて、お二方のライブを手伝った。

 当時の林さんは、猜疑心のかたまりのような、「来るものは拒まず」を真逆でいく人だった。心に鉄のカーテンが敷かれていて、勝手に懐こうとする僕は、いったい何度戸惑ったことか。

 連絡先を教えてくれたときは、飛び上がりそうになるくらいうれしかった。昨日のことのように思い出す。誰にでも心を開かない人。徳井健太の「陰」の部分を作り出したのは、林さんと言っても過言ではないし、僕の若手時代を振り返ったとき、絶対的なMy師匠だった。

 林さんからは、 “面白くないことを言うくらいだったら黙っておけ。逆に、面白かったらフルスロットルで飛び込め”、そんなデッドオアラフな姿勢を教わった。今思えば、完全に間違った教育なんだけど、僕は嬉々としてそのイズムを体と頭に叩き込んでいた。楽しくて、夢中で、狂っていた時代だったと思う。売れることに固執することもなかった。面白ければそれでいい。そんな時代が長く続いたような気がする。

 平成ノブシコブシが、『(株)世界衝撃映像社』でちょっとだけテレビに出るようになったくらいだろうか。林さんから、「芸人を辞める」というメッセージが届いた。清々しいくらい簡潔な文面だったことを覚えている。

 新幹線で目的地に向かっていた僕は、反射的に席を立って、直立不動でその文面を見ていた。乗車中、なんて返信していいか分からず、書いては消し、書いては消しの繰り返し。今までの思いを、自分なりに綴れたかどうかは分からないけど、気が付くと新幹線は目的地に到着していた。

 芸人をやめた林さんとは会わなくなった。最後に会ったのは、10年くらい前だったと思う。

 その林さんと二人きりでラジオのブースの中にいる。あの頃だって、二人でラジオなんてやったことはない。久々に会っても、20年前と変わらずに緊張している自分がいた。多分、死ぬまで林さんには緊張してしまうと思う。

 林さんは、いま、自分が生まれ育った南房総市について発信している。市議会議員を目指そうと思ったきっかけは、2019年に猛威を振るった台風15号に起因するという。千葉県、とりわけ房総半島は甚大な被害を受けた。何か役に立てることはないか――。真剣に南房総市について語る林さんを見て、 芸人時代に敷かれていた心の鉄のカーテンはなくなったんだなって思った。少なくても僕にはそう見えた。

 じゃあ逆に、自分はどう思われているんだろう? 決してそれは、ネガティブな感情ではなくて、自分の血と肉を作ってくれた師匠を前にして、緊張しない弟子なんていないよねって。「今のお前の笑いは鈍いんじゃないの?」なんて思われているかもしれないと思うと、ドッと汗が噴き出してきた。

 僕は、「自分は人間的にこれだけ成長しました」というところを見せたかったんだと思う。あの放送中、音楽がかかっている間のフリーの時間、ずっと林さんに話し続けて、よく分からないアピールをしていた。20年前と変わらない。この日だけは、音楽がかかっている放送に乗らない時間が、自分にとって本番だった。この人にだけは、「つまらない」と思われたくない。

 bayfmのブースはガラス張りになっていて、ちょうど夕暮れ時の西日が林さんと僕を包み込む。オレンジ色に染まるブースの中で、昔を懐かしんだり、今に思いをはせたり、これからやりたいことを話していると、なんだか泣けてきちゃって。裏のTOKYO FMでは、やしろさんがパーソナリティーを務める、『Skyrocket Company』が流れている。

 放送中、おさむさんからファックスが届いた。

「若い頃は、人の悪口や妬みしかしゃべらなかった二人が、こうやって人に感謝する回が聴けて、とても幸せです」

 生きているといろんなことがある。良いことも悪いこともあるけれど、良いことに巡り会うために、いま、この瞬間を生きよう。

あきらめるにはもったいないほどの愛と夢。有田さんが掲げる新たな賞レース「愛情-1GP」構想。【徳井健太の菩薩目線 第182回】

2023.09.20 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第182回目は、新しい賞レースついて、独自の梵鐘を鳴らす――。

『ソウドリ』は、いつも発見をもたらしてくれる番組だ。

「ソウドリ解体新笑」という企画内で、有田さんとお笑いについて話をする機会に恵まれていることは、本当にラッキーなことだと思う。ラッキーなんて言ったら失礼かもしれないけど、有田さんのようなお笑い愛にあふれた人の隣で、今昔のバラエティや芸人についてあれこれ考察できるのは幸運というほかない。

 有田さんは先日の放送で、第一線で活躍するMCクラスの芸人が推薦する芸人が競い合う「愛情-1GP(あいじょうワングランプリ)」構想について語っていた。その話を聞いていて、俺は泣きそうになってしまった。

 めちゃくちゃ面白いのになかなか売り切れない芸人や、日の目を浴びることに恵まれない芸人がたくさんいる。でも、そんな芸人たちの底力に気が付いている兄さんたちは、いつか「こいつは売れる(売れてほしい)」と信じてやまない。

 彼ら彼女らにチャンスを与えることはできないか――。そこで第一線で活躍しているMCクラスの芸人たち、それこそくりぃむしちゅーさんをはじめ、今田さん、東野さん、有吉さん、ジュニアさん、 サンドウィッチマンさん、バナナマンさんなどが「俺のおすすめ芸人」を出し合って戦わせる。それが有田さんが掲げる「愛情-1GP」構想だ。まるで代理戦争。面白くならないわけがない。

 だって、わくわくするじゃない。

 推薦人であるMCクラスの芸人たちは、推薦する芸人に売れてほしいと願っている。でも、面白くない芸人を推薦してしまうと、自分の審美眼に疑いの目を向けられる可能性もあるから、へたな芸人は推薦できない。確実に面白い芸人を送り込む。つまり、クオリティが担保される。

  一方で、推薦された芸人は、推薦人であるMCクラスの芸人の顔に、泥を塗るようなことはできない。極端な話、死ぬ気で「愛情-1GP」で放つ一撃に、魂を込めると思う。

 今ある賞レースとは、まったく違うヒリヒリ感と緊張感。こんなサバイバルな状況で、推薦された芸人たちがノックダウン方式で戦っていく。それぞれにドラマがあって散っていく。あー、想像するだけで何だか泣けてくる。

 お笑いの世界に、「頑張ってきた人間が報われる」的な世界はいらないかもしれない。でも、若手時代を過ぎて、自分が中堅になると、愛情の存在にイヤでも気が付いてしまうときが来る。誰かの愛で今の自分がいるんだから、その愛を違う誰かにつなぐことはできないのか。だから、愛情が支配するような異質な賞レースが一つくらいあってもいいと思う。誰もバッドエンドにならない。そんな賞レースを見てみたいと思いません?

 ぐいぐいと話に引き込まれた俺は、「今すぐやってほしいくらいですよ。やりましょうよ!」なんて興奮していた。だけど、有田さんは釘を刺すように、「ただな……」とネックがあることを教えてくれた。もしも、「愛情-1GP」をテレビ番組として放送するなら、

「裏番組からMCクラスの芸人がいなくなるということなんだよ」

  推薦する芸人がVTR出演だったとしても、第一線で活躍する芸人を一堂に会すわけだから、スポンサーの兼ね合いを含め放送枠を取ることができるのかって問題がある――と。面食らった。

 現場を面白くしようという目線しかない自分とは、まるでレベルの違う戦いをしているんだって圧倒的敗北感。MCクラスの芸人たちは、こんなことまで俯瞰して、「面白い」を考えているのかって。

 テレビではない「枠」でやることも一つの選択肢なのかもしれない。だけど、影響力を考えると、やっぱり「テレビが一番なんだ」とも付言していた。自分が好きな芸人を推薦するなら、せっかくならテレビでやらせてあげたい。「愛情-1GP」は、とことん愛情にあふれた最高の企画だと思う。

 オリンピックが放送される時期だったらどうなるんだろうなんて考える。裏番組がスポーツ一色に染まり、芸人もあまり重要視されないタイミングだったら……でも、オリンピックに水を差すような賞レースは歓迎されないか。なんとかできないものか。

 あきらめるにはもったいないほどの愛と夢。「愛情-1GP」、やりましょう。

 

汗だらけって、どんな化粧よりもかっこいい。あるドラマ現場で感じた花束みたいな関係性【徳井健太の菩薩目線 第181回】

2023.09.11 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第181回目は、現場で汗について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 とあるドラマからオファーをいただき、兵庫県へ3泊4日のロケに行ってきた。情報がオープンになったらアナウンスしようと思うので、ここでは某ドラマとして扱わせてください。

 真夏の野外ロケということもあって、酷暑の意味をこれでもかってくらい突きつけられた。立っているだけで汗が噴き出てくる。遮るものがない場所での撮影だったから、輪をかけて灼熱。地球はどうなっちゃうんだろうね。

 こんな状況下でも、屋外で働いている人たちがたくさんいらっしゃる。僕らは、もっと手を合わせて感謝しなければいけないことがたくさんあると、思い知った。

 工事現場やごみ収集、配達員の皆さん、本当にありがとうございます。そして、ドラマのスタッフの皆さん、本当にお疲れ様でした。休憩の最中、ふと現場に目を配ると、この灼熱地獄の中、ドラマのスタッフさんは走り回っていた。監督さんも助監督さんも制作スタッフ陣も技術スタッフ陣も、良いものを作ろうと、文字通り額に汗をかいていた。エキストラの皆さんも、文句ひとつ言わずに協力してくれていた。ジリジリする暑さとともに、この空間に敬意を感じた瞬間だった。

 ドラマのスタッフさんはせわしない。バラエティーの場合、スタッフさんは影に隠れるように、演者とあまり接点を持とうとしない。そして、俺たち芸人も、演者としてどうすれば面白くなるか夢中になっているから、正直なところ、あまり周囲に目を配らない。ディレクターやカメラマンさんとは大なり小なり連携を図るけど、大半のスタッフさんとの関係値は高くはないと思う。

 でも、ドラマの現場はなんだか違った。スタッフさんが演者に風を当てたり、水を渡したり、コミュニケーションを図ったり、関係値が高そうだった。おまけに、今回のような過酷な環境下ともなれば、同じ時間を共有する仲間みたいな雰囲気が熟成されていく。吊り橋効果じゃないけれど、バラエティの世界にはない演者とスタッフの絆みたいなものを感じた4日間だった。うらやましい世界だなと思った。こういう世界がバラエティにもあったら……という意味ではなくて、シンプルに、こんな世界が広がっているのって「いいもんだなぁ」と思ったんだよね。

 監督さんは、おそらく俺と同じ年代の女性の方だった。撮影が終わると少し話をする機会があって、今回、俺を起用するにいたった理由をいくつか教えてくれた。その監督さんは、カジサックのファンだと話していた。今でこそカジサックは、YouTuberとしての地位を確固たるものにしているけれど、彼がYouTubeに進出した当時、「芸人なんだからYouTubeなんかするな」なんて批判的な声が圧倒的多数だったことを覚えている。

「徳井さんだけがカジサックさんに、「いいじゃん、やりなよ」って言ってくれて、ファンとしてとてもうれしかったんです。ファンの気持ちがわかる人なんだろうなと思って、今回徳井さんにオファーを出させていただいたんです」

 そう監督さんは教えてくれた。何気ない言葉が、こんな形で巡りめぐってくるなんて、世の中は面白いなぁと思った。ありがたいじゃない。

 自分の出番が無事クランクアップすると、柄にもなく花束を渡された。たった数日間だったけど、花束が絆のように見えた。助監督さんが、「監督さんが、徳井さんと写真を撮りたいと言っていますので、1枚いいですか?」と聞いてきた。「もちろん」。スマホのカメラに向かって、俺は監督と一緒にポーズをとった。

「すいません! こんな汗だらけの姿で。化粧とかも全然してないのに。すいません!」

 面映ゆそうに監督さんが笑った。全然そんなことはない。

「なに言ってるんですか? 一番かっこいいじゃないですか。汗だらけって、この業界ではどんな化粧よりも一番かっこいいですよ」

 本当はそう言いたかったけど、花束を渡されて、どう振舞っていいか分からなかった俺は、「いやいや」と毒にも薬にもならないクソ対応をしてしまった。申し訳なかったなぁ。

「皆さんがかいていた汗は、とてもかっこ良かったです」。この場を借りて伝えさせてください。このドラマが面白くなることを、出演させてもらった演者の一人として、心から楽しみにしています。

若い頃には気がつかなかったたくさんのことに気がついたから、甲子園を見てしまうのだと思う【徳井健太の菩薩目線 第180回】

2023.08.30 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第180回目は、甲子園について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

『熱闘甲子園』は好きで、毎年よくテレビで見ていた。野球というよりドラマが好きなんだろうな。球児たちのドラマをギュッと凝縮した『熱闘甲子園』は、俺のような野球に詳しくない人間でも楽しむことができたんだと思う。

『熱闘甲子園』を追いかけているうちに、次第に全国高等学校野球選手権にも興味がわき、今年はいよいよ腰を据えて試合を見るようになってしまった。

 不思議なもので、『熱闘甲子園』が好きだからか、試合を見ていると勝手にドラマを考えてしまう。「あー、ここでこの選手がヒットを打ったら激アツじゃん」とか。見続けていると、試合を最初から見た方がより起伏が生まれて面白いとも気が付いた。当たり前の話なんだろうけど、野球にさほど興味がない人間にとって、1回から9回まで見るのはなかなかしんどい。

 でも、ドラマを最終話だけ見るのと、1話から見続けるのとでは、思い入れも楽しみ方もまるで違うように、野球もはじめから見た方が面白いに決まっている。とりわけ、ノックアウト方式で頂上を目指す甲子園は、ドラマのかたまり。長さを感じる以上に、見ているこちらまで充実感を感じさせてくれるのだから、高校球児たちに最敬礼だ。

 今回、個人的にもっとも痺れた試合が、準々決勝の仙台育英(宮城)対花巻東(岩手)の東北対決だった。仙台育英が9回まで猛攻を仕掛け、一方的な試合展開になり、花巻東最後の攻撃の時点で9対0。この試合を見ていたほとんどの人が、「せめて1点は返してほしい」と願いながら見守ったんじゃないかと思う。一矢むくいてほしい、そう思いながら俺もテレビを見ていた。1回から見ていないと、こんな気持ちにはなれない。

 花巻東の9回裏は、4番から始まる攻撃だった。相手のミスもあって、1点どころか一挙4得点。イケイケムードの中、2アウトで打順が回ってきたのが、高校通算140本塁打を誇る規格外のスラッガーであり、今大会最注目の一人である佐々木麟太郎選手だった。彼は、「3番・一塁」で先発していたけど、この日は完璧に抑えられ無安打。でも、自らに打席がまわってくると信じ、4番の北條選手が打席に向かうと、ヘルメットと手袋をつけて打席に備えていた。

 佐々木選手が打席に入ると、全員が泣いていた。彼までつなぐという説明のつかない熱のようなものが渦巻いていた。結果、4点をもぎとり、2アウトになりながらも、花巻東は4番から3番の佐々木選手まで本当につないだ。まだ試合は終わっていないけど、その熱はテレビで見ている自分にまで伝わってきて、自分も泣いていた。

 WBCのメキシコ戦は、不調の村上宗隆選手が逆転のサヨナラヒットを打って劇的勝利を収めた。けれど、花巻東はそうはならなかった。セカンドゴロで、佐々木選手は最後の打者となった。

 高校野球を見ていると、純粋にうらやましいという気持ちを抱いてしまう。プレイしている選手たちもスタンドで応援している高校生たちも、今あの瞬間、「青春」という言葉でしか形容できない涙を流している。

 大人になって、社会の中で立ち振る舞うようになると、高校時代に流したような涙を流す瞬間というのは訪れない。うれしかったり、悲しかったり、誰かのために泣くことはあるけれど、説明がつかないような熱を帯びた涙を、大人になって流したことは、少なくとも俺にはない。思春期に、自分と誰かのために流せる涙は、本当に尊いことだと思う。

 もしかしたら俺も、M―1 やキングオブコントで優勝していたら、そんな涙を流せたのかもしれないけれど、やっぱり甲子園の泥だらけの涙は特別だと思う。M―1 の決勝にも甲子園にも行っていない「お前が言うな」なんだけど。

 お金にもならないことに無我夢中になって流せる涙は、もう俺たちにはない。もう流すことができない涙。逆に言えば、大人になってもそういう涙を流している人に、僕たちは思いを託してしまうんだろうなと思う。

「歳をとったから」「おじさんになったから」、そんな理由で甲子園を見てしまうわけじゃない。若い頃には気がつかなかったたくさんのことに、ただ気がついたから、甲子園を見てしまうのだと思う。

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