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千鳥・大悟さん、麒麟・川島さん、劇団ひとりさんに共通する“シルクタッチ”な笑い<徳井健太の菩薩目線 第117回 >

2021.11.30 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。最新回では、“シルクタッチ”な笑いについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

ご存知の通り、俺はテレビばかり見ている。千鳥さんが MC を務める『クイズ!THE違和感』を見ていたときのこと。

その日は、くら寿司の特集をしていて、「本当は存在しないくら寿司の商品を選んだらアウト」といった趣旨のクイズが行われていた。正解するとご褒美として寿司をいただくことができるという内容だったと思う。

出演者の一人である前田敦子さんが、ご褒美としてシャリの上にあふれんばかりのネタが乗っかったお寿司を頬張る――そういう瞬間があった。その寿司には、タルタルのようなソースがたっぷりかかっていて、俺は「これをきれいに食べるのは難しいなぁ」なんてことを思いながら画面を見つめていた。

案の定、あっちゃんの口元にはタルタルがついてしまった。おそらく、編集上でカットされているんだろうけど、スタジオではそのタルタルについて丁々発止が行われたのではないかと思う。オンエア上では、大悟さんの一言が乗っかっていた。

「顎の下に寿司をつけちゃうぐらい美味しいんやわな」

ウケにいくトーンでもなく、下げにいくトーンでもない、隣人のようなトーン。テレビを見ていた俺は、なんて上品なんだろうとうっとりしてしまった。

「あっちゃん、ここに付いてるよ」とさりげなく教えてあげることが一番優しいようにも感じられる。でも、これだと笑いにならない。だからといって、笑いを取りにいこうと思うと、「美味しいのは分かるけど、がっつきすぎだよ、あっちゃん!」という具合にウケのトーンで言い放つことになる。こうなると下品な笑いの取り方。自分の手柄にしてしまうケースになってしまう。

ところが、大悟さんはそのどちらでもない全員の気持ちをくみ取りながら、あっちゃんに対しても気を配る。さらには、スタッフは笑いどころとしておいしい。そんなフォローをたった一言に集約させ、笑いに変えてしまうのは、同業者である俺からすると、ものすごいことであり、ただただ感嘆してしまう。

大悟さんと仕事を一緒にさせていただくと、上品なフリを俺に対しても共演者に対してもしてくれる。大悟さんは、北木島という島育ちだからやんちゃでワイルドなイメージが先行していると思う。だけど、ワイルドとはほど遠いくらい上品な人でもある。

優しいという解釈をどう取るか――。

たとえば、車道側を歩いている女性に「危ないよ」と声をかけ、強制的に車道から遠ざける……これは優しいんだろうか。優しさというよりも、ごくごく当たり前のことでしかないわけで、これを優しいと解釈すると、すぐ人に騙されるのではないかと心配になってしまう。

俺は、優しさというのは、ユーモアと隣り合わせになっているものだと思う。気が付いたら、「あれ、私、車道じゃない方を歩いていたな」と感じ、よくよく考えたら「あの一言がきっかけだ」、そう自然に思ってしまうのが、優しさだと思う。

先の大悟さんのさりげない一言しかり、もっと世の中は気が付いてほしい。でも、あまりにもシルクのように肌触りがいいものだから、タッチされたことに気が付かない。気が付かないから、気が付かれないんだろう。

肌触りの良いシルクタッチ、かつ面白いコメントを出せる人って、芸人の中でもごくごく限られている。パッと思い浮かぶのは、麒麟の川島さん。そして、劇団ひとりさんなどなど。

川島さんが、現在『ラヴィット!』 でMC をしてるのはものすごく納得だし、ひとりさんが 『クイズ!あなたは小学5年生より賢いの?』でMCをしているのも、冷や奴に醤油をかけるくらいごくごく当たり前のことに感じる。

『あなたは小学5年生より賢いの?』で、すべての牙を抜いた状態でMCをしているひとりさんは、モンスターだ。どうやったら、あんなに総入れ歯みたいに牙を抜くことができるのか、理解ができない。普通なら、“オレ、面白いですよ感”が残ってしまうけど、あの番組におけるひとりさんは1ミリも出すことなく、凡人アナウンサーのふりをし続けている。

そうかと思いきや、『ゴッドタン』ではすべての毒を巻き散らしていく。そして、 デトックスできたことに満足したように、『あなたは小学5年生より賢いの?』で凡人アナウンサーに化ける。ゴールデン番組でしか劇団ひとりさんを見ていない子どもは、「面白くない人」と認識している可能性だってある。

劇団ひとりとはよく言ったもの。一体、一人で何役こなしているんだろうと思う。コントの中だけではなく、仕事でも百面相。あれだけ役柄を循環させているんだったら、最終的には土に還って、死体も残らないで消えていくんだと思う。劇団ひとりこと川島省吾は、かっこいい芸人だ。化ける人だから、モンスター、化け物に違いない。

そして、カワシマって何者なんだろうと思う。

ひとりさんも、くっきー!さんも、麒麟の川島さんも、みんな「カワシマ」だ。カワシマって名前は、お笑い界の中では、ワンピースでいうところのDの一族のような存在なんだろうか。どうしてこんなに異才ばかりなんだろう。

徳井健太の菩薩目線 第116回 東京NSC5期生の功か罪か? 厳しさを失わせてしまったのかもしれない。

2021.11.20 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第116回目は、自分たちの世代で変えてしまったことについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

芸人の世界は、先輩後輩――縦の関係が厳しいと言われる。
縦の関係性を重視しない事務所もあるけど、吉本に関してはその通りだろう。
だけど、東京NSCに関して言えば、昔と今とではだいぶ変わったように思う。
その境目に、俺たちはいるような気がする。

東京NSC 5期生である俺たちは、一つ上の先輩である4期生にインパルスやコンマニセンチといった面々がいて、1期性には品川庄司、2期生にはハローバイバイという具合に、厳しく、怖い先輩が少なくなかった。先輩から呼ばれたら、「行かない」という選択肢はない。そんな雰囲気が当たり前だった。

当時、東京NSC 5期生である俺たちは、まったく期待されていなかった。前述したように1期上である4期生にはインパルスの他に、ロバートや森三中といった天才的な面子が揃い、“花の4期”なんて呼ばれていた。1期に一組スター候補がいればいいという状況下で、あまりに4期生は豊作の年だったからだ。

だからなのかわからないけど、歯牙にもかけられない俺たちは、どこかさめているところがあって、先輩との付き合いに対しても、妙なフラットさがあった。いま思い返すと、5期生は意図的にそういうスタンスを取っていたような気がする。

「来い」と言われても、適当な理由を作って「行かない」。それまで続いていた不文律を破り始めた。ただ、綾部だけは関係性にうるさく、律儀に先輩と接していた。

そんな俺たちに続くように、後輩であるロシアンモンキーやアームストロング、LLRらも先輩たち――、というか5期生とフラットに付き合うようになった。彼らもまた、先輩に対して過剰な意識を働かせなくなっていった。

俺はそういった関係性が好きだったけど、いま改めて考えるとはたしてそれが正しかったのか? なんてことを考えてしまう。

上からの教育を受けたことで、自分たちが下の人間にも同じように教育を加えるといった連鎖を断ち切ったところはあったけど、切ったら切ったで本当に秩序がなくなってしまった。秩序と言うか、あるべき関係性が。

例えば、先輩が後輩におごるということは暗黙のルールになっている。でも当時、俺たち5期生は本当に金のないときは、後輩から金を借りたし、割り勘にするといったことも珍しくなかった。先輩後輩の関係から仲間の関係になってしまったとも言える。

その傾向は、その後の期にも浸透し、9期生と10期生の間にはほとんど上下関係はなかったように感じられるほどだ。 4期生と5期生の間には、驚くほど溝があったのに。1期生なんて殿上人だと思っていたのに。中学生のとき、中学校1年生と中学校2年生ではまるで雰囲気が違い、中学校3年生ともなるとエンカウントすることが恐怖体験。そんな感覚が、俺たちを機に、どんどんどんどん浅くなっていった。

ヨシモト∞ホールへ行くと、みんなが仲良さそうにしてるのはいいことだ。風通しは良い。でも、緊張感が無くなってしまったような気がする。まぁ、当事者である俺が言うのもなんだけど。

ぴりついた雰囲気は、成長を促進させる可能性を持つ。同時に、トラウマになってしまう可能性もあるから考えものだけど、緊迫しているからこそ頭をフル回転させる。実際、東京NSCにおいては、10期生のオリエンタルラジオやはんにゃが登場するまで、若手のスターは生まれなくなってしまった。関西では次から次へとニューカマーが出現することを考えると、上下関係をなくすというのは、下が育ちづらくなる一因なのかもしれない。これは組織論でも同じことが言えるような気がする。

俺は、NSC 2期生であるカリカさんが大好きだったから、勝手にカリカさんのライブに行って手伝ったりしていた。すると、自然に上下関係が生まれ、たくさんお二人から学ぶ機会を与えてもらった。当時の俺は、上下の環境がないなら自ら作りに行くしかない――なんてことは考えていなかったけど、結果的にそれが大きかったように思う。やっぱり圧がないと売れるまでの土壌が形成されないのかもしれない。事実、先輩と最も付き合っていた綾部が、ピース結成以前から頭角を現していたわけで。

関西から次々に勢いのある若手が登場するのは、そういった厳しい関係性、そこから育まれる圧みたいなものがうまく作用しているからだとも思う。普段の付き合いの中にある厳しさが、漫才やコントに活かされ、平場にも還元される。

やっぱり怖さって、それなりに必要な要素なんだろうなと思う。これはお笑いだけじゃなくて、あらゆることに言えること。優しさはとても大事なことだけど、同時に怖さがなければ、 人間のどす黒い感情は爆発できないのだと思う。

徳井健太の菩薩目線 第115回 人は誰でも、誰かの何かになっている可能性がある。全身がんの女の子との思い出。

2021.11.10 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第115回目は、10年前のとある出来事について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

テレビ朝日で放送されている『かまいガチ』をよく見る。

千鳥さんの番組もそうだが、スタッフがウケている、ウケていないではなく、二人が“面白い”と感じている瞬間を感じられるバラエティは面白い。そこに、コンビ間の信頼関係が伝わってくるからだ。

『かまいガチ』を見すぎている影響からだろうか。番組内で濱家がよく作る料理を、自分でも作るようになってしまった。とても美味しい。その中で、下積み飯という回があった。

彼らが売れてないとき、天竺鼠――川原と瀬下が暮らしていた部屋、通称「天竺ハウス」は、同期のたまり場だったそうだ。

鎌鼬(当時)、天竺鼠、藤崎マーケット・トキらが、濱家の作った料理を囲む。

売れない同期同士で、同じ釜の下積み飯を食らう。そんな弱火の時代に、あるとき、トキがロックバンド『ザ・マスミサイル』の「拝啓」という曲を聴かせたと話していた。

それから十何年後。売れっ子となった彼らが再び「拝啓」を聞く、というのが今回の企画のクライマックスだった。山内は号泣していた。

もしミュージシャンだったら。

こんなにうれしいことはないんじゃないかなと思った。精神や時間、いろんなものをすり減らして作った曲が、 かまいたち、天竺鼠、 藤崎マーケットら売れない時間を過ごしていた芸人たちを支えていて、そのメッセージが十何年後に届く。

こんなにパフォーマンス冥利に尽きることはない。そう考えると、芸人の漫才やコントも、もしかしたら誰かの根幹を縁の下で持ち上げてるのかもしれない。

でも、作った側の当事者には、今はまだ届いてこない。時間差が、どうしても生まれてしまう。だから、ずっとわからないままだってある。 

ちょっと遠い昔。全身がんにおかされた10代の女の子とフジテレビで会ったことがある。どういった経緯でそうなったのか、俺にも分からない。カメラが入っているとか番組で取り上げるとかではなく、プライベートな取り組みだったと聞く。「誰か好きな人に会えるなら誰がいいですか?」と聞くと、その子は俺の名前を挙げてくれたという。平成ノブシコブシではなく、徳井健太の単独指名。

当時の俺は、『ピカルの定理』に出演していた頃だった。もしかしたら、ピカルがきっかけだったのかもしれない。でも、当時の俺はまだまだ尖っていて、ヨシモト∞ホールのファンに向けて「差し入れはいらない」と念を押して繰り返し、「仮に持ってくるにしても酒か金券」と明言するような輩だった。

『ピカルの定理』の収録の休憩中。ほんの短い時間だったと思う。フジテレビの一室に、お父さんとお母さんとその子がやってきた。

彼女は、「徳井さんは物をいらないっていうから」と気恥ずかしそうに口を開くと、俺に焼酎と金券をプレゼントしてくれた。全身がんの10代の女の子から手渡された焼酎と金券――。

申し訳なさしかなかった。でも、手に取らないと、もっと申し訳ないと思って、余命を告げられている子から、俺は焼酎と金券を受け取った。

あれから10年経って、俺は40歳になった。尖りは、気が付くと丸みを帯びていた。いろいろと批判の多いお笑い業界だけど、あの子が会いたいと言ってくれていた以上、どれだけつまらないと言われてもやり続けないといけない。そういう感覚がやっぱりある。いい話をしたいわけじゃない。だけど、事実。事実は耳を塞ぎたくなるから疎まれる。でも、事実だから言葉にできる。

一緒に写真を撮ったりして、その子は喜んでいたように思う。ただ、そのときの俺はとてもひねくれていて、「なんで俺なんだろう」ということで頭がいっぱいだった。もっと考えられることがあったと思う。今も申し訳なく思う。

そのときにしか出てこない言葉や接し方もあるんだろう。30歳の俺と、当時のその子。その瞬間、瞬間が大事なのだとしたら、必要以上に卑下することでもないのだろうか。あの瞬間は、何度だってよみがえる。俺も、誰かの何かを支えているのかもしれない。なんてことを気が付かせてくれる。

たくさんの人から好かれることも素敵だ。でも、たった一人。その一人からとんでもないエネルギーを、何年か経って受け取ることもある。

人知れず、誰も見ていないところで、名もなき人が涙を流したり、喜んでいたりする以上 、どんな理由があってもやめるわけにはいかない。何かを表現するというのは、そういうことなんだなって、『かまいガチ』の下積み飯を見て再確認した。

徳井健太の菩薩目線 第114回 高級車両が配車されるMKタクシー。究極のプライベート空間。一度乗ると、もう戻れない。

2021.10.30 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第114回目は、MKタクシーについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

MKタクシーがめっちゃいい。

昔、渡辺直美が「MKタクシーしか乗らない」と話していたことがあった。ようやく、その理由がわかった。他のタクシー会社にはない、圧倒的な快適感がある。

自宅からタクシーで移動する場合、迎車(配車)してもらう形で目的地まで行くことが多い。一般的に、タクシーの配車料金は300円ほどだと思う。一方、MKタクシーは、配車1台につき500円かかる。

ちょっと高いのには理由がある。

東京で MKタクシーを呼ぶと、 ベンツ、レクサス、アルファードなど高級車両しか来ない(大阪や名古屋などでは異なるらしい)。しかも、コンセント、無料Wi-Fi、TVが完備されている。ホテルが自宅までやって来るんだ。配車料金こそ高くなるもののロールスロイスまで呼ぶことができるという。同車の乗り心地を知りたければ、実はMKタクシーが数千円で叶えてくれる。

予約を取る際は、乗車する人の名前と目的地を伝える。そのため、乗車してから目的地やルート確認などをすることはない。そう、あの煩わしいやり取りがが一切ない。エスコートされ、乗車すれば、目的地まで一直線。極端な話、一度の会話をしなくても目的地まで着いてしまう。完璧なプライベート時間。

なんでもオリンピックの時期は、全く予約が取れなかったらしい。一度電話した際、「予約が取れない」と言われ、「今の期間は2日前には連絡がほしい」と釘を刺された。それなりにお金を持っている人、もしくは関係者を送迎するためにこぞってMKタクシーが使われたのかもしれない。

MKタクシーは、他社タクシーのように「野良」がいないはずだ。基本的に予約をして来てもらう。他のタクシーのように、町を回遊していることはない。タクシーを必要としている人のためだけに動く。なんだかプロフェッショナルだ。

このコラムでも書いてきたように、タクシーでは良いことも起これば悪いことも……どちらかというと後者の方がよく起きる。道をよく把握していない人、やたらと話しかけてくる人などなど、わざわざ電車ではなくプライベートに特化したタクシーで移動しているにもかかわらず、電車で移動するよりも煩わしいことが発生しがちだ。

2回うれしくなるようなことが起こり、6回は何も起こらず、2回は面倒の極みのようなことが起こる。そういったタクシーも、エピソードを拾うという意味では悪くないかもしれない。MKタクシーは10回すべて何も起こらない。でも、とにかく居心地がいい。

そんなMKタクシーに乗ったときのお話。

車が到着すると、俺はわけのわからない高揚感を覚えていた。なんといってもベンツだ。同じタクシー代にもかかわらず、これから高級感に包まれながら目的地まで運んでくれる。

時間は深夜。目的地までのおおよその料金は理解している。ゆえに、料金を気にすることなく、車に揺られていた。到着。そして、俺は驚愕した。

普通のタクシーであれば、料金メーターが丸見えになっている。ところが、MKの料金メーターには、特注のポケットカバーのようなものが付いていて、料金が見えない仕様になっていたのだ。会計時に、はじめてそれが明かされる。御開帳である。まるで俺を運んでくれたタクシー、その料金が秘仏であるかのような演出。何かとてもありがたいものを見たかのような気分になってしまい、俺は手を合わせたいくらいだった。

おそらく MKを選ぶ人に、細かな料金を気にする人なんていないと思う。それでも料金が上がっていく様子を見ると、気になってしまう人はいるだろう。そんなストレスを感じさせないために、こういった工夫がされているのだとしたら――。何より、料金を隠すだけで、こんなにも品が生まれるなんて驚いた。

格式のありそうな小料理店に行くと、時折、値段が書かれていない(もしくは「時価」と書かれている)ケースがある。不思議なもので、ボロボロな佇まいの居酒屋だったとしても、値段が書かれていないだけで緊張感が走る。「こんな内観をしているけど、きっとあの大将はどこかの名店で修業を積んだ料理の達人なのかもしれない」などと思い込んでしまう。値段が書かれていないだけなのに。

表記があれば、これは安いとか高いとか「コスト」の話をし始める。大人数で行くと、なおさら値段を気にしてしまう。だけど、高級というのは、安い高いの範疇ではなく、値段を払えるのは当たり前という前提の上に成り立つサービスなのだと気が付かされた。「パフォーマンス」を見てくれよって。料金を隠すという効果には、本来であれば感じることのできなかったifを演出させるのかもしれない。

まさかそれを、タクシーの中で体感するとは思わなかった。

何より運転手から、 運転手然としたオーラがあるのがいい。タクシーに乗ると、この人は別にタクシー運転手になりたくてなったわけじゃないんだろうな――なんて瞬間を感じることが少なくない。でも、MKタクシーに乗ると、皆、なりたくてこのハンドルを握っているんだろうなという気がする。気のせいかもしれない。だけど、どの業界にも“頂”があるんだなということを教えてくれるMKが、俺は好きだ。

徳井健太の菩薩目線 第113回 何も言えなくてサイゼリヤ。 腹が減りすぎていた俺も、間違えたサイゼリヤも、誰も悪くない。

2021.10.20 Vol.Web

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第113回目は、サイゼリヤでの出来事について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 こんなにも腹が減るんだと思った日があった。

 あまりにも空腹だった俺は、サイゼリヤに飛び込み、ドリアやら明太子パスタやらハンバーグ……計4品ほどを頼んだ。とにかく食べたかった。

 店員さんが注文を繰り返すと、間違いなくいま俺が口にした品々をなぞっていた。料理が運ばれてくるまで、両手にナイフとフォークを握ってスタンバイ。ザ・わんぱくを象徴するほど、とにかく腹が減っていた。

 見る人が見たら、俺は出所後のソレに見えたと思う。

 お待ちかね。いよいよ、料理がやってきた。でも……頼んでいないカルボナーラが目の前に置かれるではないか。当たり前のように店員さんはサーブし、さっそうと厨房へ消えていく。

「すいません、頼んでないんですけど」と言おうとしたときには、すでにその背中は見えない。明太子パスタと間違えたんだろうか――。そんなことを思うものの、とにかく腹が鳴っている。鼻腔に美味しそうなカルボナーラの匂いが攻めてくる。

 俺は、「これを食べよう」と決めた。

 後ほど申告して、追加扱いしてもらえばいいだろう。そう思って、真ん中の卵を割ってカルボナーラ完全体を作り上げる。一口食べて、「さすがはサイゼリヤ、この価格でこの味はうまいよな」なんて悦に浸る。無性にドリア299円を食べたくなるときってあるよね。腹が減っているときに食べるご飯って、なんでこんなに美味いんだろう。

「間違えました」

 冷徹な響きを帯びつつ、突然、手が伸び、俺のカルボナーラは連れていかれた。ウソだろ。「すいませんでした」もなければ、リスニングも一切ない。強制連行されるカルボナーラ。

 クリームのついたスプーンを持ったままの俺は、「こんなはずかしめを受けることがあるのか」と愕然とした。子どもだったら泣いている。一口食べただけの目の前の美味しい料理を、何も言わずに強制的に取り上げられる……こんな経験あるようでない。 

 一体、どれだけの人が生きているうちに遭遇するだろう。一口食べて、何も言わずに取り上げられる――、もう毒味の世界じゃないか。初めて体験したけど、一口食べて皿を取り上げられるって、とっても辛いことでした。

 このことを『オールナイトニッポン0』で話すと、吉村も「たしかにそんな体験ないな」と頷いていた。めったに共感することのない俺たちが、珍しく共感した出来事。

 だって風俗みたいじゃない。羞恥プレイ。腹をペコペコにしたおじさんが、待ちきれなくて両手にフォークとナイフを握りしめ、たった一口で取り上げる。会計時に、レシートにオプション料金がついてないか確認したけど、別にそういうわけじゃなかったらしい。

 おそらく、そんなマニュアルがあるんだろう。間違えてサーブした料理は、有無を言わずに持って帰ってくる的なマニュアルが。じゃないと、説明がつかないくらい持ち去るスピードが早かった。

 本来であれば、手を付けてしまっているわけだから、「すいません……お代をいただいてもいいですか」。あるいは、「こちらが間違えてしまったのでお召し上がりください」などなどリスニングがあるだろうに。強制連行は、さすがに原理主義すぎる。

 でも、がっついていた俺もダサいし、注文が間違っていることを分かっていながら食べた俺も意地汚い。だからと言って、「ちょっと待って待って!」などと取り上げられたカルボナーラに対して声を上げるのも品がない。庶民の味方であるサイゼリヤに、反抗の意なんて持っちゃいけない。

 この前、アルタ裏で、ロックアイスに直接レッドブルとジンを入れ、袋ごとかき混ぜながらカブ飲みしていた人の姿を見て、下品の極みだと呆れた。

 同様に、消えゆくカルボナーラに対して、「あの!」なんて止めようものなら、俺もロックアイスレッドブル人になってしまう。品こそ最後の砦なんだ。

 その後、何のコミュニケーションもなく、頼んだ料理が次々と運ばれてきた。なんか悔しかった俺は、「カルボナーラを頼んでやろうかな」と思ったけど、理性がそれを許さなかった。結局、なすがままに食べ続けた。

 世の中に、答えがないことなんてほとんどない。だけど今日、サイゼリヤで起きたことは「答えがないこと」なのかもしれない。 誰も悪くないし、全員無罪放免。 何も言わずに強制連行したスタッフも、何も言えなかった俺も。何も言えなくてサイゼリヤ。

徳井健太の菩薩目線 第112回 『オールナイトニッポン0』で感じたファミリー感とかなしさ

2021.10.10 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第112回目は、オールナイトニッポン0について、独自の梵鐘を鳴らす――。

初めてニッポン放送『オールナイトニッポン0』の単独パーソナリティーを担当させていただいた。平成ノブシコブシも芸歴21年を迎え、齢も40を越しました。そこでようやく、オールナイトニッポンが気付いてくれたんだとしたらありがたい。一回きりとはいえ、特別な体験だった。

実を言うと、俺も吉村もオールナイトニッポンを聴いてこなかった……というか、ラジオ文化で育ってこなかった。俺は、『ごっつええ感じ』をはじめテレビの中の笑いで育ってきたから、熱心に深夜ラジオを聴くといった習慣がないまま、今にいたる。

そのため、オールナイトニッポンのパーソナリティをするということが、どれくらいすごいことなのかピンときていなかった。ところが、アナウンスされるや、芸人やスタッフ、方々から「出るんですよね!?」、「すごいじゃないですか!」、「話すこと決めてるんですか!?」なんて具合に、あらゆる反応が飛んできて驚いた。祭り感が、すぎる。

「なんかよくわからないけど、すごい感じがするなぁ」。そんな感覚のまま、当日、ニッポン放送に向かい、入り口で検温と消毒を済ませる。どこに向かえばいいんだろうと考えていると、警備員さんが歩み寄ってきて、

「4階ですよ」

と粋な声で案内してくれた。もう、さっそうと。スマートに。

普通であれば、「出演者様ですよね?」とか「番組は何ですか?」とか聞いてくる。ところが、この時間に来るということは、オールナイトニッポン0の出演者一択。しかも、今日はノブコブがパーソナリティ。すべてを把握しているようなトーンで「4階ですよ」の一言。俺には、(がんばってください)と心の声が聞こえるくらい、警備員さんすらオールナイトニッポンの一員という感じがした。

そのファミリー感たるや、恐れ入った。

俺たちの前、つまり1~3時はオードリーがパーソナリティーを担当している回だったので、打ち合わせの最中、ずっと彼らのラジオが流れていた。

台本には、「オードリーさんありがとうございました。ここからは平成ノブシコブシのオールナイトニッポン0です」と書かれている。前のパーソナリティが今まさにしゃべっているオールナイトニッポンを聴きながら、 打ち合わせをし、時間を過ごす。これを毎週やっている。同じ空間に、生で居続ける。そりゃファミリー感も生まれる。同じイベントを共生している感じが、すさまじいんだ。

おそらくあの警備員さんも、オールナイトニッポンを聴いているんだろう。入り口からオールナイトニッポンのファミリー感を創り出す一員という感じがしたし、あのウキウキ感は今まで見たどの警備員さんより、番組の一部という感じがした。これがオールナイトニッポンなのかと、俺は震え上がった。

平成ノブシコブシは、ラジオ童貞じゃない。以前にも、ラジオのパーソナリティはやっている。オールナイトニッポンとはいえ、ゲストの一回。なのに、周りは「すごいっすね!」と喝采を浴びせ、現場に到着するとビリビリとファミリー感を感じさせる。

ただラジオの仕事をするだけのに、俺たちはこれから何かとんでもないことをするんじゃないのか――、そんな気持ちになってしまい、 本番直前、俺も吉村もすごい緊張しちゃった……。出たこともないのに、 M-1決勝の出番待ちってこんな感じなのかなって、巡り合うことのなかった未来すら想像してしまった。冗談じゃないよ。

そんな状況だったのだけど、放送はお楽しみいただけたんだろうか?

放送後も、オールナイトニッポンの残響は聞こえてくる。まず、同じラジオなのかってくらい評判が違う。賛辞の声もあれば罵倒の声もある。でも、とにかく数がすごい。

少し前にやっていた文化放送『卒アルに1人はいそうな人』は、俺自身はとても好きなラジオ番組だったけど、誰が聞いていたのかわからないくらい評判や反響の類が、一切、俺の耳には届いてこなかった。そして、俺の曜日だけ、Youtubeに違法にアップロードされていなかった。

約10年ほど出させていただいたMBSラジオ『オレたちゴチャ・まぜっ! 〜集まれヤンヤン〜』ですら、「徳井さんが話していたこの前のラジオの~」みたいなことは起こらなかった。10年、ほぼ皆無。

ところが、オールナイトニッポンは、誰かがYouTubeに上げる、書き起こしのようなテキストがある、Twitterでも転がされる――。

たった一回なのに、こんなに反応があるのは、なんてさびしいんだろうと思った。

日の当たらないところで、何百回、何千回、何万回とやっている人たちだっているのに。同じことを。そう考えると、俺はたった一回も大事にしたいと思ったし、誰も見てないかもしれないことを反芻していくことも大事にしようと、あらためて思った。特別な体験とは、そういうことを再認識させてくれるから、特別なんだ。

徳井健太の菩薩目線 第111回 みなおかの名物企画「買うシリーズ」で購入した約80万円の高級時計を質屋に売った理由

2021.09.30 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第111回目は、思い入れについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

「徳井さんて、肌着とか来ないんですか?」

数年前、仕事で共演したやす(とにかく明るい安村)から言われた一言。自覚はしていた。自分の脇を見ると、素肌に直接着たパーカーに、じっとりと脇汗がにじんでいる。やすも、気になって指摘してくれたのだろう。これじゃ仕事に集中できなかっただろうに。

少し恥ずかしくなった俺は、肌着というものを初めて意識した。緊張感を伴う仕事が増えれば、今後、脇汗をかく機会も増えるかもしれない。「これからは着用しよう」。さっそくユニクロの真っ白な肌着を10着ほど購入し、脇汗対策にいそしんだ。

あれからどれくらい経っただろう。

先日、麻雀を打っていると、突然、「徳井さん、ワクチン打ったんですか?」と聞かれた。なぜ脈絡もないこのタイミングで? これが噂のワクチンハラスメントか――などと思っていると、彼は俺の腕を指さす。

伸びきった肌着がTシャツの下から顔を覗かせていて、あたかも二の腕にガーゼがかぶさっているような状態になっていた。正体の主は、あのとき買った10枚のうちの一枚だった。

「恥ずかしい」

と思った。 ただただだらしなく伸びきった肌着がTシャツを突破して、求めていない自己主張しているその様子は、羞恥心を掻き立てるに十分すぎる。俺が、終始ハラスメントしていたようなもの。

家に帰って、よくよく肌着を見てみると、だらしないのなんのって。真っ白だったはずなのに、オフホワイトのように変色していて、よれよれ。着丈は膝上まで伸びていて、湯葉でできたハイパーミニを着用しているような俺が鏡に映っていた。

俺も芸能界の末席にいる人間。こんなみすぼらしい格好を人に見られたのでは、あまりに申し訳ない。数日後、仕事で飛行機に乗る機会があったので、空港のユニクロに立ち寄り、同型の新品肌着を探したものの見つからない。約7年の間に販売休止になったらしく、仕方なく巷を席巻しているエアリズムなるものを買ってみた。

真っ白な肌着。再び、同じものを10着買うことにした。

そのことを当コラム担当編集A氏に告げると、「なぜまた同じもの10着買う?」と言われた。曰く、「白は乳首が透けるから、どうせ10着買うんだったらブラックやネイビーも買ったほうが着回しがきくじゃないか」と。

なるほど、その発想はなかった。でも、俺としてはコカコーラをレギュラー、ライト、ダイエット……それぞれ三種類ずつ買わないのと一緒の感覚。「コーラとエアリズムは違う」と言われたものの、「これだ」と思ったものを徹底して買ってしまう。同じものを買い続けているのは、俺の中で“ゴールが見つかっている”からであって、歯磨き粉も缶ビールも同じものしか買わない。肌着のゴールが、ユニクロなんだ。

俺が服に対してまったく無頓着なことは、以前『「モテたい」よりも「面白いと言われたい」という欲が、服装に表れる』でも説明した通り。カジュアルな場所は T シャツでいいし、フォーマルな場所はジャケットを着とけばいい。世の中なんて、それでどうにでもなる。

時計に関しても、まるでこだわりがない。以前、『とんねるずのみなさんのおかげでした』内の「買うシリーズ」で、80万円ほどの高級時計を買った。でも、2~3年もすると「腕時計なんて必要ないな」と気がつき、質屋に売り飛ばした。

「とんねるずさんの番組で買った思い出の品でしょ!? “「買うシリーズ」で買った時計”ってだけで付加価値がすごいじゃない。なんで売れる!?」

再びA氏が異を唱える。でも、その発想もなかった。

腕時計なんて付けていなくてもどうにでもなる。とんねるずさんのことを好きなことと、とんねるずさんの番組で買った腕時計は別腹。

着用していたときから何度か忘れて帰ってくることがあった。「忘れるってことはいつか失くすな」と感じていた。だったら失くす前に、お金に変えた方がいいと思い、質屋へ走った。質屋の買い取り価格は、20~30万円ぐらいだったような気がする。

思い出がないのか、はたまた思い入れがないのか。とにかく生きていて、そういった感傷にひたる機会があまりない。相方である吉村は、「あのときはこうだったよなー」とか、「この店、潰れたんだ!? ここにはあんなものがあって」みたいな話をするのが好きだけど、俺は思い入れがないからか、そういう話に興味が持てない。すでに無いものについてあーだこーだと話すより、今あるものについて話した方がいいと思ってしまう。

そう考えると、俺が新宿や渋谷が好きな理由もなんだかわかった。次から次へと新しいものができていく新宿や渋谷は、思い入れが幅を利かしてくるなんてことが少ない。だから、俺は好きなんだ。思い入れがないと、エアリズム白を10着即決購入できるように、案外、決断も早くなるのかもしれない。迷わなくていいかもしれない。

徳井健太の菩薩目線 第110回 アベプラで話した“ギャラ飲み沼”から抜け出せなくなった女性と、アキラ100%のロケを見て感じた「稼ぐこと」

2021.09.20 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第110回目は、稼ぐことについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

徳井健太の菩薩目線 第109回 KAT-TUN 上田くんのような嘘をつかない人間の海外ロケが見てみたい

2021.09.10 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第109回目は、『食宝ゲッットゥーーン』出演時の印象について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

『徳井の考察』内で、KAT-TUN&食宝ゲッットゥーーンについてお話させていただいた。中丸くんのバラエティ能力、亀梨くんの所さん感、上田くんの戦国武将感――。

驚いたのは、3人ともテレビ的な要素(例えばカメラなど)を意識しているようには感じなかった点だった。普段は、芸人がいない収録だという。一体、どうやって回しているんだろうというくらい気負いがない。その自然な感じに、とても好感を抱いた。

とりわけ気になったのが、上田くんだ。彼からは、一切人から好かれようという感じがしない。話し方、椅子の座り方、どれをとっても好かれようなんて思っていない、たたずまい。心の中に優しさを持っていたとしても、その優しさを伝える努力をしたくない――、努力を伝えるための努力をしないという雰囲気を、勝手に感じた。会ったことはないけど、勝新太郎さんをはじめとした昭和の名優って、こんな感じだったんだろうなと、時空を飛び越えてしまった。

男女問わず、「ファンのおかげです」なんて明らかに嘘と見破られるような上っ面の言葉を並べるだけのアイドルが少なくない。俺もいろいろなアイドルと共演させていただいてきたけど、不愛想でも嘘をついてないほうがよっぽどいいと思っている。

彼ら彼女らは、自分たちがファンに支えられているということを痛いくらいにわかっている。おそらく、ファンも自分たちが支えているという強固な自覚があるはずだ。だから、そもそもお互いが大事に思っていないと、アイドルとファンの関係なんて成り立たない。そんな当たり前のことをわざわざ口にする必要なんてあるの? あえて伝えないという人だっているに違いない。逆張りのロックだ。

久々に芸能界で嘘をついてない人を見たなと思った。ここにいたのかって。 芸歴10年くらいだったら、まだわかる。でも、長い人生の中で自分のキャリアと向き合わなきゃいけなくなってくる15年、20年ともなれば、話は変わってくる。ずっとブレないってのは、ものすごく鍛錬が必要なことだ。

上田くんは、『イッテ Q 』のような海外ロケが、とても似合うと思う。嘘をつかないから、ものすごく説得力が生まれると思う。海外の文化に触れたとき、飯がまずかったらまずいって顔をするだろうし、純粋に感動したら涙を流すだろうし。 『ハイパーハードボイルドグルメリポート』のようなハードなロケも見てみたい。嘘くさくないから、『炎の体育会TV』 にハマってるのも納得だ。

そんな気持ちの一部を『徳井の考察』で述べたわけだけど、ありがたいことに動画の中では再生数しかり好評のようだ。が――、反響って本当に難しいなと痛感している。

振り返ると、 『徳井の考察』内で反響が高かった動画は、オリラジ中田のあっちゃんとコラボしたものや、東野さんやハライチについて話した回が、それなりに再生数が高い。そんな中、意外にも再生数が高いのがバッドボーイズ佐田さんの『佐田ビルダーズ』を考察した回だ。佐田さんが登場するわけではないのに、どういうわけか6万回ほど再生されている。『特攻の拓』ファンが大勢視聴したのだとしても、THE YELLOW MONKEYについて考察した回よりもダブルスコアで再生されるなんてどうかしている。何が反響につながるのか「!?」なんだ。

加えて、再生回数が高いからと言って、チャンネル登録者が増えるわけでもない。それどころか回を重ねるごとに、ジリジリと登録者数が減っている。もう「!?」としか言いようがない。

おそらく、多くの人がお笑いの分析を望んでいるんだと思う。とは言え、あまりニッチなところをチョイスしても再生回数は回らないし、ビッグネームを扱うにしても、語るまでもないからビッグネームになりえたわけで、語るに落ちる。

端的に言うと、壁にぶち当たっている。

『フリースタイルティーチャー』を扱ったものの、目も当てられない再生数を弾き出してしまった光景などは、壁によって圧死したと思ってもらって構わない。

過去にも、「賭博deハッピーちゃんねる」なる回をお届けしてみたけど、誰も受け取ってくれなかった。「見ず知らずの他人に、勝った金で酒を奢りたいです。20万円が目標です。応援よろしくお願いします!」と謳ってみたけど、敷居さえまたがせてくれずに門前払いだった。サブチャンネルでやれよ、って話だったのかもしれない。

まったく何が伸びるのか読めない。それがYouTubeの面白さなのかもしれない。一方で、結果を出したあっちゃんやカジサックのすごさを思い知る。結局、俺自身が興味のあることをやり続けるのが、一番ストレスにもならないし、良いことなんだろうなと思う。一周回っていない原点回帰は、ずっとスタート地点にいるだけのような気もするけど、俺も嘘をついてまで何かをやりたいとは思わない。

 

 

※「徳井健太の菩薩目線 」は、毎月10・20・30日に更新予定

徳井健太の菩薩目線 第108回 俺は麻雀界のヒールらしい。ヒーローがいないなら、雀卓一帯を焼け野原にするしかない。

2021.09.02 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第108回目は、麻雀の世界で起こる「徳井論争」について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

「徳井さん……僕は、徳井さんの麻雀スタイル含めて好きなんで」

いつものように雀荘で興に乗じていると、先ほどからこちらをチラチラとうかがっていた40歳くらいの男性から声をかけられた。“僕は”。あまりに含みを持たせた言い方。違う卓から、わざわざ俺のところに来てまで伝えたかった言葉。だと考えると、心に引っかかる。“僕は”ってことは、彼は少数派なんだろう。引っかかって引っかかって、その後の麻雀は、ほとんど覚えていない。

身に覚えがある。なんでも、俺のいないところで麻雀のプロ、雀士たちが集まると、「徳井の戦法は是か非か? 認めていいのか?」といった“徳井論争”が起こるらしい。麻雀番組でたびたび共演する女性タレントから、直に聞いたことなので、本当らしい。恐れ多い。というか、“徳井論争”ってなんなんだよ。

「いろいろみんなで話すんですけど、最終的には徳井さんの麻雀も認めなきゃいけないんだっていう結論になります」(女性タレント)

……。複雑だよ。本当に論争じゃないか。最終的には認めなきゃいけない――ということは、ほとんどの人がアンチ徳井スタイルなわけで、冒頭の“僕は”の謎も解けてしまった。俺は、まったく自分のうかがい知らないところで麻雀界のヒールになっていたらしい。俺にエールをくれた先の男性は、隠れキリシタンだったんだ。

麻雀界のヒール。一体、俺は何をしでかしているのか。

麻雀に詳しくない人もいるだろうから、「徳井さんの麻雀も」がどういうものか、説明しておきたい。 

例えば、プロ野球選手の引退試合があるとする。その引退する選手の最後のバッターボックス。ピッチャーは直球勝負を貫き、気持ちよく バッターがバットを振れるよう、花道を演出する。よくある光景だ。

実は麻雀にも、そういった暗黙の了解や美学がある。せせこましいことや老獪なことは王道ではなく邪道と映る。しかし、俺はよこしまな道をフルスロットルで駆け抜け、勝利を掴みにいく。「そこでそれやる?」と思われても、アクセルを踏み込む。意図してやる以上に、嬉々としてやる。

先の引退試合の例で言うなら、現役最後のバッターボックス、その打席に対して俺は平気でフォークボールを投げるようなもの。その選手が、現役最後なんて知ったこっちゃない。こっちは現役。万が一打たれたら、防御率が上がってしまう。去りゆく人への花束よりも、現役の 1アウト。勝負である以上、現役最後の打席だろうが、勝ちにいかせていただく。俺は笑いながらフォークを投げ、空振りした引退選手は、マウンド上の外道を睨む。そして、俺は再び笑い返す。“徳井論争”が起きるのも、当然っちゃ当然かもしれない。外道の牌。自覚している。

プロ雀士、著名人、アマチュア、全国の雀士――幅広い分野の麻雀愛好家が集うオープントーナメント『麻雀最強戦』という最高峰の戦いがある。竹書房「近代麻雀」誌主催による麻雀のタイトル戦であり、1989年度から行われている由緒ある大会だ。優勝賞金300万円。副賞は一切ない。王者しか賞金を手にすることはできない。

“男子プロ因縁の血闘”“女流チャンピオン決戦”“タイトルホルダー頂上決戦”など、テーマごとに選ばれた雀士がブロックごとに戦い(全部で16ブロック)、その中からたった一人がファイナルトーナメントに進出する。選ばれし16名が4人×4卓に分かれ、以後、上位2名がノックダウン方式で最強の称号を目指す。ゾクゾクする。最高の晴れ舞台、俺は“著名人異能決戦”と題されたブロックに出場することになった。

 

A卓 松本圭世 福本伸行 加賀まりこ 宮内悠介

B卓 瀬川瑛子、徳井健太(平成ノブシコブシ)、佐藤哲夫(パンクブーブー)、近藤くみこ(ニッチェ)

 

腕が鳴る面子。何癖もある手練れを相手に、俺は暗黙の了解を破り続ける。結果、ファイナルトーナメント進出を果たした。素直に嬉しかった。

麻雀は勝負なんだ。勝つことができるなら、美学なんていくらでも捨ててしまったほうがいい。結果を残せば、「最終的には徳井さんの麻雀も認めなきゃいけないんだっていう結論になります」になる。偉そうなことは言えないけど、勝負ってどこを切っても、結局、残酷なんだ。

『麻雀最強戦』は、ABEMAで放送される。サイバーエージェントの藤田晋社長は、この大会を機に麻雀に目覚めたといい、2014年には著名人代表としてブロックを勝ち上がり、ファイナルを制覇してしまった。プロアマを含む、同年の参加者2700名の頂点に立ったのだ。お笑いに『M-1グランプリ』があるように、麻雀にも『麻雀最強戦』がある。

そんな大会に出られる可能性があるのだから、勝ちにいかないのはウソだ。踊るように打たなきゃいけない。ヒールには、ヒールの正義がある。

俺が『麻雀最強戦』のファイナルで、どう道を外れていくのか、ぜひ見ていただきたい。麻雀は部活動じゃない。甲子園は教育的な側面があるだろうから、正々堂々さが問われる。でも、プロは違う。悪名だろうが、轟かせたら勝ちだ。そんな大悪党を懲らしめるヒーローがいるから善悪の均衡は約束される。ヒーローがいないなら、雀卓一帯を焼け野原にするしかない。

徳井健太の菩薩目線 第107回 絵の評価は難しい。いつか飾る絵のために「額縁」を探しに行った

2021.08.20 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第107回目は、絵画に関心を持った背景について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 ここ数年、絵を見ることが好きになった。芸術ってすごい――などと、当たり前のことを言いたくなるくらい、芸術はすごい。芸術家たちの生きざまはすさまじい。それでいて、面白い。

 好きが高じてというほど詳しくはないけど、いずれ絵を購入したら……なんて考えると、額縁が必要になる。気が早い。というわけで、画材・文房具専門店「世界堂」に行ってみた。

 すげぇ高いんだ、額縁って。びっくりした。きちんとしたものを買うなら、2~3万円は当たり前。ともすれば、シャガールやピカソ……世界にその名を轟かす名画をおさめる額縁は、一体いくらするんだろう。

 学校の校長室や病院の応接室に飾ってある立派な絵。その額縁だって、それなりに高いに違いない。今まで気にかけることなんてなかった額縁が、妙に高価なものに思えてくる。額縁は額も高ければ、奥も深いものだと気が付いた。新しい興味を持つと、新しい発見がある。

 飾る予定の絵はない。けど、俄然、額縁を通して「飾る」という行為に関心を持った俺は、その飾り方も気になってしまった。壁に額縁をネジか釘かで打ち付けるのか、それともフックのようなものでひっかけて飾るのか? 世界堂をうろうろしていると、まさに飾るための小道具が陳列されているコーナーを発見した。

 その中に、「想い出くん」という額掛けがあった。なんともそそるネーミング。「家にキズをつけずに額をかけられる!」らしい。

 形状を説明するのは難しいのだが、S字フックのような形をしていて、突起しているところ(和室の長押など)に挟みこむと、壁などをキズつけずに掛けられる。おお、なるほど。これは便利だなんて思ったものの、1セット2つで梱包されている「想い出くん」は、売れ筋とは一線を画すように、さびしそうにたくさん陳列されていた。なのに、少し手垢感があった。

 その一つを手に取り、我が家に長押のようなひっかけられる出っ張りがあるかを考えた。あれこれ思料し、他のものと比べてから、購入するか否かを決めようと、一旦「想い出くん」をしまおうとすると、「あれ?」。まったく元の形にしまえない。

 俺は、間違いなく目の前にある箱から「想い出くん」を取り出したのに、1セット2つを重ねて、箱に戻そうとすると、どうやっても収まる気配がない。一体、俺はどうやって取り出したんだろう。

 知恵の輪のような状態が続くこと数分。こんな余興をするために世界堂にきたわけじゃない。他のしまわれた状態の「想い出くん」を参考に、何度もチャレンジしても、やっぱり入らない。

「すみません」

 俺は白旗を上げた。店員さんに謝りながら、その旨を伝えると、彼はほんの数秒で箱にしまってしまった。きっと俺のように、「想い出くん」トラップにはまった初心者がたくさんいるんだろう。だから、手垢感があったんだ。さびしい理由が何となくわかった。買いたいと思う絵と出会ったら、また「想い出くん」に会いに行こう。

 美術はいろいろな捉え方があるから面白い。俺自身は、価値を作り出してるのはアーティスト自身ではなく、パトロン的な人物だったり、支援者だったり、周辺が価値を作り出しているように感じてしまう。

 例えば、1枚の絵を完成させるために、画家は何か月も時間をかけることもあるだろう。その間、描いている絵がどれだけの価値を生むのかわからない……、「価値なし」と評価されれば、何か月あるいは数年間が、タダ働きになるかもしれない。それでも描き続ける。狂気がないとできない時間の使い方だ。もちろん、中には「自分は超有名な画家だから自分が書く1枚はものすごく高価なもの」という自負にあふれた人もいる。

 全員が露悪的で破滅的ではないにしても、どんな価値を生み出すのかわからない絵にひたすら向き合って、時間を捧げる。そして、その絵に大金を払う支持者が現れる。画家は、とんでもない職業だ。畏怖の念を抱く他ない。

 ただ――。描いた画家以外に、本当にその価値がわかる人ってどれだけいるんだろう、なんて思う。パトロンや有名な画商が価値を見出すわけであって、飾られている段階ともなれば、不特定多数はありがたがったり、高尚なものだととらえたりするしかない。凡人がはやしたて、凡人が勝手に評価を与えることもあるのなら、クラウドファンディングやオンラインサロンと大差ない。裏を返せば、芸術というのは、そういう一面をはらんでいるということなのかもしれない。

 支援する、支えるという意識が中抜きされ、評価をする、あるいは、評価を与えることのできる自分に「酔う」ところだけ残ってしまうのなら、絵の収まっていない額縁だけが飾られてるような気がしないでもない。自分の視点を大切にして、いつか飾る絵と出会いたい。

 

※【徳井健太の菩薩目線】は毎月10・20・30日更新です。

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