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あきらめるにはもったいないほどの愛と夢。有田さんが掲げる新たな賞レース「愛情-1GP」構想。【徳井健太の菩薩目線 第182回】

2023.09.20 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第182回目は、新しい賞レースついて、独自の梵鐘を鳴らす――。

『ソウドリ』は、いつも発見をもたらしてくれる番組だ。

「ソウドリ解体新笑」という企画内で、有田さんとお笑いについて話をする機会に恵まれていることは、本当にラッキーなことだと思う。ラッキーなんて言ったら失礼かもしれないけど、有田さんのようなお笑い愛にあふれた人の隣で、今昔のバラエティや芸人についてあれこれ考察できるのは幸運というほかない。

 有田さんは先日の放送で、第一線で活躍するMCクラスの芸人が推薦する芸人が競い合う「愛情-1GP(あいじょうワングランプリ)」構想について語っていた。その話を聞いていて、俺は泣きそうになってしまった。

 めちゃくちゃ面白いのになかなか売り切れない芸人や、日の目を浴びることに恵まれない芸人がたくさんいる。でも、そんな芸人たちの底力に気が付いている兄さんたちは、いつか「こいつは売れる(売れてほしい)」と信じてやまない。

 彼ら彼女らにチャンスを与えることはできないか――。そこで第一線で活躍しているMCクラスの芸人たち、それこそくりぃむしちゅーさんをはじめ、今田さん、東野さん、有吉さん、ジュニアさん、 サンドウィッチマンさん、バナナマンさんなどが「俺のおすすめ芸人」を出し合って戦わせる。それが有田さんが掲げる「愛情-1GP」構想だ。まるで代理戦争。面白くならないわけがない。

 だって、わくわくするじゃない。

 推薦人であるMCクラスの芸人たちは、推薦する芸人に売れてほしいと願っている。でも、面白くない芸人を推薦してしまうと、自分の審美眼に疑いの目を向けられる可能性もあるから、へたな芸人は推薦できない。確実に面白い芸人を送り込む。つまり、クオリティが担保される。

  一方で、推薦された芸人は、推薦人であるMCクラスの芸人の顔に、泥を塗るようなことはできない。極端な話、死ぬ気で「愛情-1GP」で放つ一撃に、魂を込めると思う。

 今ある賞レースとは、まったく違うヒリヒリ感と緊張感。こんなサバイバルな状況で、推薦された芸人たちがノックダウン方式で戦っていく。それぞれにドラマがあって散っていく。あー、想像するだけで何だか泣けてくる。

 お笑いの世界に、「頑張ってきた人間が報われる」的な世界はいらないかもしれない。でも、若手時代を過ぎて、自分が中堅になると、愛情の存在にイヤでも気が付いてしまうときが来る。誰かの愛で今の自分がいるんだから、その愛を違う誰かにつなぐことはできないのか。だから、愛情が支配するような異質な賞レースが一つくらいあってもいいと思う。誰もバッドエンドにならない。そんな賞レースを見てみたいと思いません?

 ぐいぐいと話に引き込まれた俺は、「今すぐやってほしいくらいですよ。やりましょうよ!」なんて興奮していた。だけど、有田さんは釘を刺すように、「ただな……」とネックがあることを教えてくれた。もしも、「愛情-1GP」をテレビ番組として放送するなら、

「裏番組からMCクラスの芸人がいなくなるということなんだよ」

  推薦する芸人がVTR出演だったとしても、第一線で活躍する芸人を一堂に会すわけだから、スポンサーの兼ね合いを含め放送枠を取ることができるのかって問題がある――と。面食らった。

 現場を面白くしようという目線しかない自分とは、まるでレベルの違う戦いをしているんだって圧倒的敗北感。MCクラスの芸人たちは、こんなことまで俯瞰して、「面白い」を考えているのかって。

 テレビではない「枠」でやることも一つの選択肢なのかもしれない。だけど、影響力を考えると、やっぱり「テレビが一番なんだ」とも付言していた。自分が好きな芸人を推薦するなら、せっかくならテレビでやらせてあげたい。「愛情-1GP」は、とことん愛情にあふれた最高の企画だと思う。

 オリンピックが放送される時期だったらどうなるんだろうなんて考える。裏番組がスポーツ一色に染まり、芸人もあまり重要視されないタイミングだったら……でも、オリンピックに水を差すような賞レースは歓迎されないか。なんとかできないものか。

 あきらめるにはもったいないほどの愛と夢。「愛情-1GP」、やりましょう。

 

汗だらけって、どんな化粧よりもかっこいい。あるドラマ現場で感じた花束みたいな関係性【徳井健太の菩薩目線 第181回】

2023.09.11 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第181回目は、現場で汗について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 とあるドラマからオファーをいただき、兵庫県へ3泊4日のロケに行ってきた。情報がオープンになったらアナウンスしようと思うので、ここでは某ドラマとして扱わせてください。

 真夏の野外ロケということもあって、酷暑の意味をこれでもかってくらい突きつけられた。立っているだけで汗が噴き出てくる。遮るものがない場所での撮影だったから、輪をかけて灼熱。地球はどうなっちゃうんだろうね。

 こんな状況下でも、屋外で働いている人たちがたくさんいらっしゃる。僕らは、もっと手を合わせて感謝しなければいけないことがたくさんあると、思い知った。

 工事現場やごみ収集、配達員の皆さん、本当にありがとうございます。そして、ドラマのスタッフの皆さん、本当にお疲れ様でした。休憩の最中、ふと現場に目を配ると、この灼熱地獄の中、ドラマのスタッフさんは走り回っていた。監督さんも助監督さんも制作スタッフ陣も技術スタッフ陣も、良いものを作ろうと、文字通り額に汗をかいていた。エキストラの皆さんも、文句ひとつ言わずに協力してくれていた。ジリジリする暑さとともに、この空間に敬意を感じた瞬間だった。

 ドラマのスタッフさんはせわしない。バラエティーの場合、スタッフさんは影に隠れるように、演者とあまり接点を持とうとしない。そして、俺たち芸人も、演者としてどうすれば面白くなるか夢中になっているから、正直なところ、あまり周囲に目を配らない。ディレクターやカメラマンさんとは大なり小なり連携を図るけど、大半のスタッフさんとの関係値は高くはないと思う。

 でも、ドラマの現場はなんだか違った。スタッフさんが演者に風を当てたり、水を渡したり、コミュニケーションを図ったり、関係値が高そうだった。おまけに、今回のような過酷な環境下ともなれば、同じ時間を共有する仲間みたいな雰囲気が熟成されていく。吊り橋効果じゃないけれど、バラエティの世界にはない演者とスタッフの絆みたいなものを感じた4日間だった。うらやましい世界だなと思った。こういう世界がバラエティにもあったら……という意味ではなくて、シンプルに、こんな世界が広がっているのって「いいもんだなぁ」と思ったんだよね。

 監督さんは、おそらく俺と同じ年代の女性の方だった。撮影が終わると少し話をする機会があって、今回、俺を起用するにいたった理由をいくつか教えてくれた。その監督さんは、カジサックのファンだと話していた。今でこそカジサックは、YouTuberとしての地位を確固たるものにしているけれど、彼がYouTubeに進出した当時、「芸人なんだからYouTubeなんかするな」なんて批判的な声が圧倒的多数だったことを覚えている。

「徳井さんだけがカジサックさんに、「いいじゃん、やりなよ」って言ってくれて、ファンとしてとてもうれしかったんです。ファンの気持ちがわかる人なんだろうなと思って、今回徳井さんにオファーを出させていただいたんです」

 そう監督さんは教えてくれた。何気ない言葉が、こんな形で巡りめぐってくるなんて、世の中は面白いなぁと思った。ありがたいじゃない。

 自分の出番が無事クランクアップすると、柄にもなく花束を渡された。たった数日間だったけど、花束が絆のように見えた。助監督さんが、「監督さんが、徳井さんと写真を撮りたいと言っていますので、1枚いいですか?」と聞いてきた。「もちろん」。スマホのカメラに向かって、俺は監督と一緒にポーズをとった。

「すいません! こんな汗だらけの姿で。化粧とかも全然してないのに。すいません!」

 面映ゆそうに監督さんが笑った。全然そんなことはない。

「なに言ってるんですか? 一番かっこいいじゃないですか。汗だらけって、この業界ではどんな化粧よりも一番かっこいいですよ」

 本当はそう言いたかったけど、花束を渡されて、どう振舞っていいか分からなかった俺は、「いやいや」と毒にも薬にもならないクソ対応をしてしまった。申し訳なかったなぁ。

「皆さんがかいていた汗は、とてもかっこ良かったです」。この場を借りて伝えさせてください。このドラマが面白くなることを、出演させてもらった演者の一人として、心から楽しみにしています。

若い頃には気がつかなかったたくさんのことに気がついたから、甲子園を見てしまうのだと思う【徳井健太の菩薩目線 第180回】

2023.08.30 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第180回目は、甲子園について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

『熱闘甲子園』は好きで、毎年よくテレビで見ていた。野球というよりドラマが好きなんだろうな。球児たちのドラマをギュッと凝縮した『熱闘甲子園』は、俺のような野球に詳しくない人間でも楽しむことができたんだと思う。

『熱闘甲子園』を追いかけているうちに、次第に全国高等学校野球選手権にも興味がわき、今年はいよいよ腰を据えて試合を見るようになってしまった。

 不思議なもので、『熱闘甲子園』が好きだからか、試合を見ていると勝手にドラマを考えてしまう。「あー、ここでこの選手がヒットを打ったら激アツじゃん」とか。見続けていると、試合を最初から見た方がより起伏が生まれて面白いとも気が付いた。当たり前の話なんだろうけど、野球にさほど興味がない人間にとって、1回から9回まで見るのはなかなかしんどい。

 でも、ドラマを最終話だけ見るのと、1話から見続けるのとでは、思い入れも楽しみ方もまるで違うように、野球もはじめから見た方が面白いに決まっている。とりわけ、ノックアウト方式で頂上を目指す甲子園は、ドラマのかたまり。長さを感じる以上に、見ているこちらまで充実感を感じさせてくれるのだから、高校球児たちに最敬礼だ。

 今回、個人的にもっとも痺れた試合が、準々決勝の仙台育英(宮城)対花巻東(岩手)の東北対決だった。仙台育英が9回まで猛攻を仕掛け、一方的な試合展開になり、花巻東最後の攻撃の時点で9対0。この試合を見ていたほとんどの人が、「せめて1点は返してほしい」と願いながら見守ったんじゃないかと思う。一矢むくいてほしい、そう思いながら俺もテレビを見ていた。1回から見ていないと、こんな気持ちにはなれない。

 花巻東の9回裏は、4番から始まる攻撃だった。相手のミスもあって、1点どころか一挙4得点。イケイケムードの中、2アウトで打順が回ってきたのが、高校通算140本塁打を誇る規格外のスラッガーであり、今大会最注目の一人である佐々木麟太郎選手だった。彼は、「3番・一塁」で先発していたけど、この日は完璧に抑えられ無安打。でも、自らに打席がまわってくると信じ、4番の北條選手が打席に向かうと、ヘルメットと手袋をつけて打席に備えていた。

 佐々木選手が打席に入ると、全員が泣いていた。彼までつなぐという説明のつかない熱のようなものが渦巻いていた。結果、4点をもぎとり、2アウトになりながらも、花巻東は4番から3番の佐々木選手まで本当につないだ。まだ試合は終わっていないけど、その熱はテレビで見ている自分にまで伝わってきて、自分も泣いていた。

 WBCのメキシコ戦は、不調の村上宗隆選手が逆転のサヨナラヒットを打って劇的勝利を収めた。けれど、花巻東はそうはならなかった。セカンドゴロで、佐々木選手は最後の打者となった。

 高校野球を見ていると、純粋にうらやましいという気持ちを抱いてしまう。プレイしている選手たちもスタンドで応援している高校生たちも、今あの瞬間、「青春」という言葉でしか形容できない涙を流している。

 大人になって、社会の中で立ち振る舞うようになると、高校時代に流したような涙を流す瞬間というのは訪れない。うれしかったり、悲しかったり、誰かのために泣くことはあるけれど、説明がつかないような熱を帯びた涙を、大人になって流したことは、少なくとも俺にはない。思春期に、自分と誰かのために流せる涙は、本当に尊いことだと思う。

 もしかしたら俺も、M―1 やキングオブコントで優勝していたら、そんな涙を流せたのかもしれないけれど、やっぱり甲子園の泥だらけの涙は特別だと思う。M―1 の決勝にも甲子園にも行っていない「お前が言うな」なんだけど。

 お金にもならないことに無我夢中になって流せる涙は、もう俺たちにはない。もう流すことができない涙。逆に言えば、大人になってもそういう涙を流している人に、僕たちは思いを託してしまうんだろうなと思う。

「歳をとったから」「おじさんになったから」、そんな理由で甲子園を見てしまうわけじゃない。若い頃には気がつかなかったたくさんのことに、ただ気がついたから、甲子園を見てしまうのだと思う。

飛行機の座席問題~根拠があること増やした方が、みんな優しくなれると思うのに【徳井健太の菩薩目線 第179回】

2023.08.20 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第179回目は、ひじ掛け問題について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 素朴な疑問ってあるよね。

 先日、飛行機に乗っていたときのこと。着陸して棚の荷物を取ろうとすると、前の座席の人が背筋をストレッチしたかったのか、両手を真上に上げて、そのまま後方に腕を倒してきた。顔面に当たるかと思うくらい、俺の目の前で腕を伸ばす、伸ばす、伸ばす。

 新幹線などでたびたび問題になる、「ひじ掛け問題」や「座席倒していいですか問題」は、これまで体験してきたものの、真上から両腕が降り注ぐという領空問題は初遭遇。たしかに、このとき俺は機上の人だったけど、ひじが侵食してきたり、座席が倒れ掛かってきたりする領海問題と違って、空の問題は初めてだったから、しばらく考え込んでしまった。

 10秒程度のストレッチだから目くじらを立てる必要なんてない。それは分かっているんだけれど、あと数センチで顔面だから。

 よくよく考えれば、座席の問題は複雑だ。たとえば、俺がコーヒーを飲むために、テーブルを倒す。でも、このテーブルは前の座席に付属しているテーブルだ。ということは、俺は前の座席の人の一部をお借りしている状態になっている――とも考えられる。テーブルを使用するというGiveがあったことで、顔面まであと数センチの両腕ストレッチをするというTakeがあるなら、背もたれだけに持ちつ持たれつというやつなのかもしれない。

 あるいは、後ろの人がテーブルを使う際に、やたらとバンバン叩くなど乱暴に扱えば、前に座っている人は不快に感じてしまう。座席に付属するモニターでコメディ映画を見ていて爆笑されたら、「俺の座席のモニターを使って爆笑してんじゃないよ」と思うかもしれない。

 考えれば考えるほど、座席ってどこまで自分の領域なのか分からない。いまだに「座席倒していいですか問題」も解決の兆しが見えないので、領土問題というのは大なり小なり永遠に解決しない争いの種なんだと思う。

 座席に関していえば、配慮や優しさで成り立っている。常識、倫理に委ねているわけだから、死ぬまで揉め続ける。だって、常識や倫理なんて人によってまるで違うんだから、そんな曖昧なものに委ねるのは、チンパンジーにミサイルのボタンを委ねるくらいイチかバチか。

 だから、きちんとした基準的なものがほしいと思うけど、言い始めたらきりがない。

 あ、なるほど。座席にお金を払っていると考えるから、1000文字近く答えのない自問自答を繰り返す。座席にではなく、「乗せてもらうこと」にお金を支払っている。つまり、搭乗する権利を2万円ほどで購入していると考えると優しくなれるのかも。

 ああ、やっぱりダメだ。権利で語ると何でもありになる。通路側にいる俺が、窓側の人の意向を無視して窓を閉めてもいいことになる。絶対に揉めるじゃないですか。通路側の人が、無理やり窓側の景色を撮ろうとスマホを取り出せば、カメラを向けられてウザいと感じた窓側の人は、独断で窓のカーテンを閉める。すでに「乗せてもらうこと」にお金を支払っている各々の戦いは開戦されていて、座席というもっと小さな領土問題に飛び火している状況なんだ。

 最近は、自転車のベルを鳴らされただけで怒る人もいるらしい。強く鳴らすのは誰だって嫌だけど、鳴らすこと自体に怒りを感じるなら、もうお手上げだ。チリンチリンが耳障りなんだとしたら、もうちょっと優しい音だったらいいのかな。Jアラートは心理学的に怖い音にしているみたいなことが言われているんだから、みんなが心地いい音色に感じる音が科学的にあるはず。だったら、その音色のベルが普及すればいいのにと思う。

 科学的に根拠がある音と、なんとなくつけた音が、世の中にはある。根拠がある音を増やした方が、みんな優しくなれるのではないのでしょうか。

 

話すことが苦手な人は、聞くことを得意なことにすればいいと思う〈徳井健太の菩薩目線 第176回〉

2023.08.10 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第178回目は、話を聞くことについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

『敗北からの芸人論 トークイベント』、その vol.6のゲストはいとうせいこうさん。せいこうさんとは、『楽しく学ぶ! 世界動画ニュース』で共演させていただいていることもあって、オファーさせていただいた。

 いつもは芸人を呼んで、あれこれ聞いていくトークライブだけど、この日は異業種のビッグネーム、いとうせいこうさん。聞きたいことが山ほどあった。

 共演させていただいているものの、せいこうさんのことを知っているようで、知らない。そこで学生時代の話から尋ねると、勉強が好きで弁護士を目指していたと教えてくれた。

 早稲田大学法学部に受かったはいいものの、「いきなり燃え尽き症候群、今でいううつ病になってしまった。死ぬことばかり考えていた」と聞かされ驚いた。そんなせいこうさんを救ったのが、たまたま楽器屋で購入した打楽器のボンゴだったそうで、「光り輝いて見えた」というそのボンゴをきっかけに、せいこうさんはバンドを作り、それが局地的に話題となり、放送業界の人と接点を持つようになったという。その縁で、タモリさんの「オールナイトニッポン」の裏方を任される――。このとき、まだ大学生というんだから、どれだけ濃い時代を過ごしていたんだろうって想像してしまう。

 その後、日本のヒップホップに影響を与えるような活動を新たに始めるわけだから、せいこうさんはボンゴと出会い、リズムに救われた選ばれし人だったのかもしれない。

 せいこうさんに当時のヒップホップのことを聞くと、「休符をどうやって隠すかにこだわった」と返ってきた。「ナントカの、ウン」のウンの部分。句読点というか息継ぎの休符をそのまま残すとダサくなってしまう。だから、この「ウン」の部分を埋めるためにあれこれ考えた――そうだ。そんなこと考えたことなんてない。驚くとともに、少しうらやましくなってしまった。

 そして、駆け出しの芸人だった俺が、せいこうさんを強烈に認識した番組が、テレビ朝日の土曜深夜の名番組『虎ノ門』(のちに『虎乃門』など名称変更を繰り返す)だった。この番組でせいこうさんは、カメリハをはじめとした番組作りのルールを理解したそうだ。もっと早くからテレビのことを知り尽くしていたと思っていただけに、意外な告白だった。

 これだから人の話を聞くのは楽しい。芸人はインタビューを受ける機会もあるけれど、個人的には「聞く」方が好きなんだと思う。「聞く」側に回った方が自然な感覚で立ち回れるということもあって、音声コンテンツ『酒と話と徳井と芸人』は肩ひじ張らずにできたんだろうな。

 話を聞くとき、「順番」にとても気を遣っている。自分がインタビューをされると、若手の頃の思い出、ターニングポイント、ブレイクしたきっかけ……などなど順番通りに聞かれることが多い。自然と流れを振り返れるから、不思議なもので話しやすくなる。

『酒と話と徳井と芸人』のゲストとして、天竺鼠と話をする機会があった。彼らとは二回くらいしか話したことがなかったから、一筋縄でいくはずがない。特に、川原に対していきなりお笑いの話をしてもひらりとかわされることは目に見えていたから、天竺鼠の馴れ初めを含めた、彼らの生い立ちから聞くことにした。自分を『お笑いポポロ』のライターだと思って。

 最初から核心の話なんてしてくれない。だから、外側から順々に聞いていく方がいい。カレーパンを食べるとき、一口目でカレーの部分だけをほおばることはできない。まずは、衣を楽しむ余裕を持ちたい。

 そして、あまりハイスピードで突っ込まない。

「役に立たないがらくたを集めています」と言われたとき、心の中で「ウソでしょ!?」「なんで!?」と思っても、その人にとってはすごく大事なことなのかもしれない。傷つけてしまう可能性だってある。だから、一拍置いてから突っ込みたい。プライベートも同じ。お酒なんか入っているときは、とりわけアクセルを踏み込みがちだけど、そういうときこそブレーキが大事だと思うんです。

 そういえば、相方である吉村は、ハイスピードの王様みたいな突っ込み方をする。

 たとえばロケで出会った人と話をしている最中に、「両親がなくなってしまって」と告白された場合。吉村は、すぐに「大変ですね」と反応する。でも、俺は大変じゃないかもしれないし、もしかしたら亡くなったことで何かが好転したことだってあるかもしれない。だから、「待つ」。

 視聴者次第で、「吉村さんって優しい」となるかもしれないし、「徳井は無反応で冷たい奴」になるかもしれない。でも、隣でアクセルを吹かしている人がいるなら、誰かがブレーキにならないと。結果的に、それが面白さにつながればいい。「聞く」ということを意識すると、結果的に得るものがたくさんあるんだよね。話すことが苦手な人は、聞くことを得意なことにすればいいと思う。

「先生」ではなく「〇〇先生」と名前で呼んでいますでしょうか? 名前で呼ぶと可能性が広がる〈徳井健太の菩薩目線 第175回〉

2023.07.30 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第177回目は、名前を呼ぶことについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 私、徳井健太が出演させていただいている『楽しく学ぶ! 世界動画ニュース』が、10月からゴールデンに進出することが決まりました。皆さま、本当にありがとうございます。

 当コラムでもたびたび触れているように、この番組のスタッフさんの熱意にはいつも感化されるし、自分にとってターニングポイントになるだろうと思っている番組なので、引き続き全身全霊で臨みたいと思っています。

 ホントに、いろいろなことを気が付かせてくれる番組なんです。つい先日も、宅配便を届ける配達員の人が引退するというアメリカの動画を見ていて、「ん?」と思ったことがある。その地域で長年働いていたということもあり、配達員の引退を町中で盛大に送り出そう――簡単に要約すると、動画はこのような内容だった。

 日本でもヤクルトを届けてくれたり、ゴミ置き場を掃除してくれたりする人がいる。だけど、その人が引退をするかなんて気にしたことはない。なのに、どうしてアメリカは、町を上げて謝意を伝えるようなことが起きるのか?

 そのことをVTR明けに話すと、番組共演者の堤伸輔さんが、「アメリカの人は必ずファーストネームを呼ぶ」と教えてくれた。たとえばあいさつをするにしても、「heyボブ、こんにちは」という具合に。

 堤さんは、出会った人の名前をすべて覚えるという。小峠さんのマネージャーさんの名前もきちんと名前で呼んでいるので、前から気にはなっていた。「たくさんの人に出会ってきたと思うのですが、どうやって覚えているんですか?」と尋ねると、堤さんは「努力です」と簡潔に説明してくれた。紙に書いて、一人ひとり覚えていくそうだ。これを努力と言わずして何と言う。

 では、日本はどうだろう? 「こんにちは」とか「お疲れ様です」だけで終わることがほとんどで、名前を付けるにしても、名字が一般的だろう。なんだったら、「先生、こんにちは」、「マスター、ありがとう」というように代名詞でくくってやりくりするなんてこともある。言われてみれば、校長先生の名前なんて覚えていない。担任の先生の名前は覚えているのに、校長先生の名前は思い出せない。そりゃそうだ、先生たちも校長先生のことを「校長(先生)」と読んでいたんだから。

 かくいう自分も、名前を呼ぶという当たり前のことから逃げてきたように思う。それこそ歯医者に行けば「先生」と呼ぶし、居酒屋に行けば「大将」と都合よく呼んでいた。でも、堤さんの話を聞いて、名前で呼んだほうがいいよねと納得してしまった。

 ヤクルトを配達している人に対して、「ヤクルトのおばさん、いつもありがとう」と伝えるのと、「〇〇さん、いつもヤクルトありがとう」と伝えるのではまったく違う。名前をつけるだけで、その人個人を尊重することができる。自分だって、「お笑い芸人って面白いよね」ってひとくくりで言われるよりも、「お笑い芸人の徳井さんて面白いよね」と単独で言われたほうがうれしいに決まっている。

 名前は、個人にフォーカスを当てる。より親しみが沸くし、親しみが生まれると可能性が広がる。そう分かってはいるのだけれど、今更名前を聞けない人たちもいるから、頭を抱えている。

 そのことを当コラムの担当編集A氏に話したところ、「それで成立しているから芸人の世界は異様だし、ある種のあこがれがある。自分たちの業界では、名前を覚えていないことはデメリットしかない」と言われた。たしかにそうかもしれない。思い出せなくても何とかなってしまうから、名前を覚えることから逃げてきたんだろうな。

 でも、俺も「heyボブ」なんて呼んでみたい。名前を大切にすることに温度感を感じたい。

 奥さんの友人にアメリカ人の方がいる。その人と話をしたとき、「アメリカって日本以上に国籍や性別、年齢などを聞きづらいじゃないですか。だとしたら、皆さんは何を話すんですか?」と聞いたことがある。前情報がなければ、上っ面の話ばかりになってしまいそうだ。

 すると、その人は、

「自分から言いますね。私のルーツはどこどこにあって、自分はこういうキャラクターですみたいに。徳井さんが言うように、自分から言わないとしゃべることがない」

 と笑っていた。自分語りとはワケが違う。アメリカでは、自らをさらけ出すことできっかけを作るという。

 そう考えると、日本は自分をさらけ出すことに対して、まだまだ遅れているんだなぁと思う。さらけ出すこと、そして、そのさらけ出しに対する寛容さがあるからこその「heyボブ」であり、リスペクトなのだとしたら――。ただやみくもに欧米からのカルチャーやトレンドを日本の社会に唱えていくのは、どこかで齟齬が生まれてしまうのは、当然なのかもしれない。

当たり前を疑うことで、人生の徳が積まれていくんじゃないでしょうか〈徳井健太の菩薩目線 第175回〉

2023.07.20 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第176回目は、入館手続きについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 当たり前だからこそ、気が付かないことってある。ふとした瞬間に、その当たり前が、「そうじゃないんだよな」って気が付けたら、人生の徳を積めたような気持ちになると思うんです。徳を積めたら、シンプルにお得じゃないですか。

 おかげさまで、いろいろなテレビ局へ行くようになりました。玄関に入って、「おはようございます」とあいさつを繰り返すうちに、警備員さんも顔を覚えてくれるようになるものです。

 例えば、テレビ朝日の番組に出演する場合、テレビ朝日本社へ行くパターンとアーク(放送センター)へ行くパターンがある。あいさつを交わし、入館の手続きをしようとすると、「あれ? 今日は徳井さん、アークの方じゃないですか!?」なんて声をかけられることもある。

 テレビ局によって、入館する手続きや方法は異なる。考えようによっては、それが局のカラーというか、それぞれの個性のようにも感じられて面白い。もちろん、こうした入館手続きはテレビ局に限った話ではなくて、出版社もそうだろうし、企業も必要に応じて手続きがあると思う。それこそ、我らが吉本興業の東京本部に入館するときも手続きが必要だ。部外者を中に入れないために、入館手続きには時間がかかることがあるだろう。どんなに顔を覚えられても、手続きは必要だ。

 僕は人様に誇れるほど、あらゆる企業の入館手続きをしたことなんて無いけれど、Abemaの入館手続きはホントにびっくりする――。それが、あらためて気が付いた当たり前の中の発見。

 Abemaは、渋谷にAbema Towersがあるけど、収録をするときは外苑前のシャトーアメーバへ行くことになる。特徴的な建物で、その入り口はガラス張りになっているため、中から外が見える構造になっている。つまり、警備員さんは中から外をうかがうことができ、どんな人が今から入館(手続き)をしようとするのか、なんとなく分かる。

 普通だったら、「徳井さんですね。今確認しますのでお待ちください」といった具合に時間を要して手続きを行う。でも、シャトーアメーバは違う。

 入口に入って、あいさつをするなり、「徳井さん、今日の楽屋は404です」と、ほぼ立ち止まることなくそのまま楽屋へひとっ飛び。まるで自動ドアのように、何も触れずに手続きが完結する。インターネットのようなアクセス性があるのだ。

 そのやり取りが当たり前になっていたので、まったく気が付かなかった。よくよく考えれば、この対応、神がかっているんじゃないのって。入館手続きを経験したことがある人なら分かると思うけど、ほぼシームレスってなかなかない。最近は、事前にパスコードが発行されて、その数字やアルファベットを端末に入力するとQRコードが発券されてゲートを通過する――なんて企業もあるけれど、このシャトーアメーバの警備員さんのなめらかさには舌を巻く。

 一日にたくさんの来客(出演者)がいるに決まっている。そのすべてに対して、あのなめらかさを実現しているのだとしたら、どんだけあの警備員さんたちは記憶力がいいんだろうか。

 楽屋だって地下と4階があるため、必ず4階になるとは限らない。ということは、警備員さんたちは、誰がどの番組に出るかを把握しているわけで、把握するってことは、「今日は誰が来るのか」と予習をしているということ……? 考えれば考えるほどプロフェッショナル。誰かひとりスゴ腕の警備員さんがいるというわけじゃない。シャトーアメーバの入館担当の警備員さんは、全員が基本的に「徳井さん、今日の楽屋は404です」とパスしてくれるのだ。

 どうしてこんなにスムーズな入館を実現しているんだろう。今度、時間があるときに聞いてみようと思う。「え? 他はそうじゃないんですか。自分たちはこれが当たり前だと思っているので」なんて言われたら、しびれちゃうかもしれない。

 当たり前のことほど、簡単に気が付かない。だって、当たり前なんだから。でも、そうじゃないんだよね。その当たり前は、どうしてそうなったのか――そんな視点を持ってみると、あらためることやほめることが、はっきりと浮かび上がってくると思うんです。

なんでもかんでも利用者ファーストにすればいいってもんじゃない。ときには黙って、プロの世界に委ねよう〈徳井健太の菩薩目線 第174回〉

2023.06.30 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第174回目は、写真館について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 子どもが生まれ、お宮参りをしたときのこと。
 家族で記念写真を撮ろうという話になった。

 我が家の近くには、都内では有名な神社がある。記念写真のことを宮司さんに尋ねると、「では、ここの写真館でいかがでしょうか」と、神社からほど近い年季の入った写真館を紹介してもらった。おそらく、神社とは懇意な間柄なんだろう。

 その写真館(仮に「山田写真館」とする)は、70代とおぼしきおじいさんがカメラマンを務める、“ザ・昭和”というたたずまいが印象的な家族経営の写真館だった。おじいさんカメラマンは、某人気キャラのぬいぐるみを巧みに使い、子どもをあやしながら20~30分ほど撮影をしてくれた。どんな写真になっているのか見当もつかないけど、どこからどうみても牧歌的な光景だったことはたしかだった。

 反面、さくっと撮影が終わったわりには、結構な料金に驚いた。大人2人が記念日に、そこそこのディナーを食べられるくらいの金額。アニバーサリーは、やっぱり高くつくのか。

 とはいえ、仕上がりは古き良き家族写真のような出来栄えで、「いいなぁ」と素直に思えた。思えたんだけど、思い出が高くつくということに対して、やっぱりどこかモヤモヤしたものが残り続けた。単に、自分がケチなのかもしれない。

「百日祝い(お食い初め)」を迎え、再び家族写真を撮影することになった。今度は山田写真館ではなく、大手のフォトスタジオに頼んでみることにした。3か月経っても、あのモヤモヤが消化できなかったことに加え、適正価格というものを知るためにも、違う場所で撮影した方がいいと判断してのことだった。

 初めて訪れた大手フォトスタジオは、山田写真館とはあまりに対照的で、システマチックでコマーシャルだった。いろいろな貸衣装に、目移りするほどの人気キャラクターのぬいぐるみたち。スタッフの数も多く、大手スーパーマーケットのような慌ただしさを思い出した。

 たくさんの写真を撮ったと思う。もうどれくらい撮ったか覚えていないけど、被写体である我々がヘトヘトになるくらいシャッターの音がした。撮影が終わると、お店のスタッフさんから、

「今日撮った写真の中からどれがいいですか?」

 と聞かれた。ギョッとした。数百枚の中から、俺たちが選ぶの? さらに疲れが押し寄せてくるのを感じると同時に、大きな罠だと思った。

 かわいい我が子が、いろいろな表情や姿で写真に収まっている。選ぶことが難しく、ついついあれもこれも選びそうになる。選んだ分だけ、料金は青天井となっていく。

 厳選したつもりだったけど、会計を見ると山田写真館の倍以上のお値段を支払うことになってしまった。「それは結構です」と断ったオプションもあった。頼んでいたら、一体、どれだけのお金がかかっていたんだろう。家族写真は、いつから倍プッシュになったんだ。

 そもそも――。プロだったら、プロが選んだ写真を提示してほしいと思うんだけど、どうなんだろう。無制限にこちらに選ばせるのではなく、「私はこの5枚がいいと思います。この5枚なら〇万円で収まるのでリーズナブルでもありますよ」とか。

 選ばせてくれる=利用者ファーストと考えれば、立派なサービスなんだろう。でも、プロにお金を払った以上、プロの視点も見てみたい。大手フォトスタジオのカメラマンは、世界的人気キャラクターのことをずっと“お友だち”と呼んでいて、決してキャラクター名を口にしなかった。徳井家が求めているプロ意識は、そこじゃなかったんだけどなぁ。

「やっぱり山田写真館がいいよね」

 家族会議の結果、スタート地点に戻ることになった。子どもが1歳になり、再び山田写真館のお世話になることを決めた。比較したとき、料金が安いということもあるけど、こちらに丸投げされるのは、なんだかプロの仕事ではないような気がしたからだ。

 俺たちは、お宮参りのときに撮った写真と、まったく同じ構図で収まることにした。子どもが20歳になるまで、ずっと続けたいと思っている。願わくば、ずっと山田写真館で。商業的な世界から切り離されている山田写真館なら、3年後、5年後も、俺たちのことを覚えていてくれるような気がした。

 無事に撮影を終えると、「2~3週間したら出来上がるのでお待ちください」とおじいさんから告げられた。郵送かご自宅に伺うと言われ、「なんでわざわざ自宅に届けに来るんだろう。こちらが取りに行ってもいいのに」と思ったけど、“年季が入っている世界”に素人が口を出していいわけがない。ときには、出されたものを黙って食うのも一興じゃないか。

 後日、汗だくになったおじいさんが写真を届けにやってきた。息を切らしていたから走ってきたんだろうか。自転車に乗ればいいじゃない。走る必要ないじゃない。どうしてそこまでして届けるのか理解できなかったけど、初めて目にしたその写真はゲキ渋で、最高に尊かった。

マユリカとのトークライブ。好奇心が勝る人たちは強いよなって思いました。〈徳井健太の菩薩目線 第173回〉

2023.06.20 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第173回目は、習いごとについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 定期的に開催される『敗北からの芸人論 トークイベント』、その vol.5のゲストにマユリカが来てくれた。少し前、このコラムでニッポンの社長について書いたとき、大阪漫才劇場の第一線で活躍していたメンバーが、この春から東京に進出したと触れた。マユリカもその一組。だけど、俺はまったくと言っていいほどマユリカとは接点がない。「マジでわからない」コンビ、それがマユリカなのだ。

 そんなわけだから、当然、話は基本的なことに及ぶ。ツッコミの中谷、ボケの阪本はどんな人間なのか、根掘り葉掘り聞くしかない。ほぼ「はじめまして」から始まる徳井健太とマユリカの、まるでお見合いのようなトークライブ。

 二人は3歳からの幼馴染らしく、同じ町の同じエリアで青春時代を過ごしたらしい。この次点でレアなコンビだ。同級生コンビは数いれど、幼少期から一緒というのは、いそうでいない。だからなのか、掛け合いが独特というか、まるで兄弟のように波長が合う。

 通常、ツッコミとボケという関係性もあるから、片方がAと言ったら、もう片方はそれを否定したり、あるいはBを提案したりする。ところが、マユリカは二人ともAに乗っかってくる。やがてそれがAダッシュとなり、Aダッシュダッシュへと発展していく。さまぁ~ずさんやサンドウィッチマンさんの雰囲気に近いっちゃ近いけど、やっぱりそこは関西人。会話自体がボケとツッコミになるから、オーガニックな掛け合いになる。その上で、さまぁ~ずさんっぽい雰囲気で楽しそうに話すから、二人にしか出せないマユリカワールドが発生する。「マユリカのラジオは面白い」と噂には聞いていたけど、なるほど、妙に納得した。たしかにこれは、聴き心地がいい。

 コンビ揃って、アイドル(特にハロプロ系)が好きというのも珍しい。だいたい、コンビやトリオの誰か一人がアイドル好きで、他メンバーは興味がないというのが定石だ。ところが、マユリカは2人揃って、同じ方向に行く。ホントに兄弟みたいだ。

 たとえば、モーニング娘。のメンバーの名前を書いたカードを用意して、盛り上がったりするらしい。自分たちが、「お店のオーナーだと妄想し、モーニング娘。のメンバーはそのお店のバイト」という設定で、お互いにランダムでカードを引いていく。5名(枚)集まった時点で、「このメンバーで起きそうなこと」を二人で考える――というから、やっぱり珍しい。相当白熱するらしく、「今のたとえは技あり! 一本!」なんて具合に評論し合うと笑っていた。句会じゃないんだから。

 コンビでそんな楽しみ方ができるなんて、ちょっとうらやましいなと思った。大喜利的な頭の使い方をするから瞬発力だって鍛えられるだろうし、何よりお互いを評価することで結束力も強くなる。仲が良いというのは、仲が悪いよりもはるかにいい。良いこと尽くめだ。

 そんな関係性だからなのか、二人とも器用で趣味が多彩でもある。特に中谷は、漫画の腕前はプロレベルで、めちゃくちゃ絵がうまい。気分転換は、「絵を描くこと」だと話していた。芸人周りで初めて聞いたかもしれない、そんな素敵な気分転換。

 趣味というのは、やり続けた方がいいに決まっている。たとえば、俺もギターを弾くけど、「趣味です」と言い切れるほど弾いてはいないかもしれない。当然、弾いた分だけ上手くなるし、弾き続けた方が自信になる。自分を疑わないようになっていく。

 俺は、やっぱりスベるのが怖い。怯えてしまうのは、スベり続ける前に、やめてしまったから。スベり続けていれば、スベるのが怖いなんてステージは、とっくに突破している。やり続けると体になじんでくる。それを鍛錬と呼び、上手い下手の世界から飛び出すことができる方法なんじゃないのかなって思うんです。

 器用な人たちって、チャレンジ精神が旺盛なことはもちろん、自分のことをバカにされるかも……という不安以上に、好奇心が勝る人たちなんだろうな。俺は、あまりボウリングが好きではない。子どもの頃に上手ではなかったから、(まだ会話が成立していた)親父から「下手だなぁ」なんて呆れられて、やる気をなくしてしまった。今もそう言われるのがイヤだから、ボウリングから足が遠のく。好奇心より不安が勝ってしまうんです。

 のびのびとさせてくれたらいいのにね。親の愛って、そんなささいな瞬間に宿る。それが趣味になったり、手に職をつけるものになったり、才能へと変わっていくのだと思います。中谷のご両親は、とても愛情深い人なんだろうな。

 下手な絵だったとしても、けなす必要なんてないんだもの。伸ばす以上に否定しないことが、才能につながるんだなって思います。

今いる自分は“点”に過ぎない。盆栽から学んだ、つないでいくことの尊さ〈徳井健太の菩薩目線 第172回〉

2023.06.10 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第172回目は、盆栽について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 皆さんは、「盆栽」と聞くとどんなイメージを持つでしょうか?

 お年寄りの趣味――そんな印象を抱く人は少なくないと思います。私、徳井健太もそう考えていました。

 月曜から金曜までBSよしもとで生放送している『ワシんとこ・ポスト』(19時~21時)という番組があります。恐れ多くも、金曜コメンテーターを担当させていただいております。全国放送では扱わない局地的なニュースを深掘りする「地方・業界特化型ニュースショー」をうたうだけあって、毎回、知的好奇心をくすぐる話題から、真剣に向き合うべき課題まで、とても刺激をいただいている。(良い番組なので見てほしいです)

 先日、番組で福島県の「吾妻五葉松(あづまごようまつ)」の盆栽を取り上げたときのこと。福島市で3代にわたって続く老舗の盆栽園「あべ」、その3代目である阿部大樹さんが登場し、「吾妻五葉松」についてレクチャーしてくださった。

 阿部家の盆栽は、自生している松を鉢に植え替えるのではなく、種一粒から盆栽に育て上げる「実生」と呼ばれる技法を用いているそうだ。阿部さんは、国立公園である吾妻山に入るために特別な許可をもらった上で、吾妻山の五葉松の自生地に入り、そして採取し買い取っているという。一から育てるため、途方もない時間と手間がかかることは想像に難しくない。

 吾妻山に自生する五葉松は、風雪を含めた厳しい環境下で育つことから「根上り」(風雨などで土が流され根がむき出しになった樹形)が特徴的で、その無骨かつ優雅な姿は、海外でも人気が高いらしい。阿部さんは、この独特な松の風体を宿すために、吾妻山に足を運び、毎日毎日、育ってきた苗木と向き合っていると教えてくれた。

 話をする阿部さんの後方に、一つの盆栽があった。大きさは、小さなクリスマスツリーくらい。気になった俺は、「後ろの松は何年くらいなんですか?」と聞いた。まぁ、いうても10年くらいだろう。

「60年くらいですかね」。

 そう阿部さんは、こともなげに答えた。ひっくり返りそうになった。60年? ってことは、今お話をされている阿部さんよりも年上じゃないか。

「じゃあ、引き継いで20年くらいだという3代目である阿部さんご自身が育てたものはどれくらいの大きさなんですか!?」

 尋ねる俺に、3代目が見せてくれたのは、(あくまで素人である自分から見たサイズ感ではあるけど) まだまだ小さいものだった。人間、20年も経てば、お酒も飲めるようになるし、社会の荒波に放り込まれるくらいには成長している。でも、目の前に映る小さな松は、我々が知るあの立派な松の姿と比較すると子ども、いや、まだまだ赤ちゃんと呼びたくなるほどかわいらしいものだった。

 松は、700年ほど生きるものもあるという。諸説あるものの、日本で盆栽が始まったのは西暦1200年くらいらしい。

 一生をかけても極めることができないもの――。それが盆栽だということを、阿部さんのお話を聞いて理解した。

 一つのことを60年も続ければ、「達人」と呼ばれる領域に足を踏み入れる、と思っていた。だけど、何百年と生きる可能性のある松を相手にしたとき、人間の寿命では時間が足りなさすぎる。盆栽として仕立てていく最中も、これがどうなるのか、あるいはどのような評価を受けるのか、その是非もわからない中で、ひたすら樹木と向き合う。答えも分からないまま、極めることもできないまま、ただひたすらに。最敬礼だ、盆栽士と盆栽に。

 お年寄りの趣味? いやいや、若いうちから盆栽は始めた方がいいような気がしてきた。自分が育てた松を、もしかしたら家族が、自分の息子が引き継ぎ、育てていってくれるかもしれない。目に見える一子相伝。こうしたプロセスにこそ、「鍛錬」という言葉が似合うなと、ふと思った。一日、一年、一生、その進歩と歴史が受け継がれていくのだから、考えようによっては、こんなぜいたくな趣味はない。

 昔、小薮(千豊)さんからこんなことを言われたことがあった。

「地球が生まれてきて何十億年という月日が経って、たまたま今お前はこの時代に生きている。ということはお前の先祖は、マンモスに殺されることもなく、病気や戦争といったものもくぐり抜けてきたということ。この先もきっとお前の子孫は続いていく。今いる自分は点に過ぎない。終わらせないために継続していくだけで十分。たまたまお前の番が巡ってきているだけ」

 盆栽というのは、天寿にも通じるものなのだと思った。いずれ死ぬけど、つないで、生きていく。その尊さを教えてくれるものなんだろうな。

天才・ニッポンの社長に、1ミリグラムでも責任を感じさせた自分をぶん殴りたい〈徳井健太の菩薩目線 第171回〉

2023.05.30 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第171回目は、ニッポンの社長について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 お笑いの世界には、「天才」がいる。俺が何億光年生きたとしても、まるで思いつかないようなことを、瞬時に作り上げてしまうバケモノのような存在。

 たとえばニッポンの社長。どこからどう見ても天才のソレ。ことあるごとに俺は、「ニッポンの社長は面白い」なんて持ち上げ、彼らが作り出す世界観に感心していた。

 少し前、俺とトレンディエンジェルのたかしがMCを務めるライブに、彼らが参加したことがあった。大阪に拠点を置く彼らだったが、以前から辻とケツとは話をする機会がそこそこあり、大阪の若手とほとんど接点を持たない俺にとって、彼らは妙な親近感を抱いてしまう気になる存在でもあった。

 その日、二人とはあまり話す機会がなく、物足りなさを感じながらエンディングを迎えた。舞台から降り、帰ろうと踵を返すと、辻が俺を呼び止めた。

「すみませんでした」

 そのライブは、『キングオブコント2022』が終了して間もない頃に行われたものだった。この年、彼らは暗転を多用するコントで挑んだものの、結果は最下位に沈む。天才に似つかわしくない順位だったと思う。

「徳井さんがあんなにほめて応援してくれていたのに、ふがいない結果で申し訳ないです」

 そう辻は続けた。

 彼の言葉を聞いて、自分の浅はかさに恥ずかしくなった。ずば抜けた才能がある人間に対して、プレッシャーになるようなことを知らず知らずのうちにしていたんだと思うと、こちらが彼に謝りたい気持ちでいっぱいになった。たった1ミリグラムでも重石になってしまっていたのだとしたら、なんてことをしてしまったんだろうと、後悔の念が押し寄せてきた。

 今年4月に行われた『敗北からの芸人論 トークイベント vol.4 』、そのゲストにニッポンの社長が来てくれた。お互いに、あの日のことを覚えていた。「すみませんでした」。今度は俺が、二人に謝った。

 あらためて彼らと話をしてみると、「余計なことは言うまい」と誓ったはずなのに、やっぱり天才コンビだな――なんて思ってしまうから、人間というのは都合の良い生き物だなと思う。

 一見すると、ケツがギフテッドなキャラクターに見えてしまうけど、いやいやどうして辻の方が狂気に包まれていた。いや、ケツもおかしいんだけれども。

 ケツは20代前半まで作曲をしていたそうだ。ところが、25歳を境にピタリと曲が浮かばなくなり、「枯れた」と苦笑していた。しきりに、「サザンオールスターズはすごいんです! 桑田佳祐さんはすごいんです」と訴えていたけれど、そんなことは日本国民のほぼ全員が思っていることであって、あらためて主張することでもないだろうと、俺は思った。

 辻は辻で、ロングコートダディの堂前やマユリカの阪本らと『ジュースごくごく倶楽部』というバンドを組んでいる。ニッポンの社長は音楽的な側面も持つ……ということは、意外に知られていないかもしれない。

 辻は、突然メロディが降りてくるらしく、思いつくとそのメロディーを録音し、その音源をもとに堂前たちに伝えて作曲するそうだ。ドラムの打ち方まで鮮明に刻まれているといい、完成された曲が頭の中に浮かぶ、と説明してくれた。

 だからなのか、「ネタも台本がない」という。練習をしてしまうと飽きてしまうため、ぶっつけ本番でネタをしながら完成度を高めていくと教えてくれた。ケツは、辻が頭に描いている完成系に、本番の中で近づけ、舞台を降りると「あそこはちゃうなぁ」と辻からディレクションが入ると笑っていた。本番の最中に、調律と限界突破を同時にこなす。映画『セッション』みたいなことを、辻とケツはしているということになる。なんだ、やっぱり天才じゃないか、この二人。

 この春から、ニッポンの社長は東京に進出した。彼らに加え、ロングコートダディ、紅しょうが、マユリカ、シカゴ実業、マルセイユ……大阪漫才劇場の第一線で活躍してきた錚々たるメンバーが、大挙、進出してきた。

 辻は、トークイベント vol.4 でその理由を教えてくれた。

「僕らは漫劇の中で一番上にいますけど、下の勢いがすごすぎる。あと3~ 4年はいけると思っていたんですけど、このままだと賞味期限が1 ~2年に早まってしまう。下から突き上げられて、大阪で仕事がなくなって東京に出てきたと思われたくなかった。東京に進出するなら今年しかないと思ったんです」

 大阪には、一体どれだけ天才がひしめいているんだろう。と同時に、そういうことをさらっと隣の兄ちゃんみたいなテンションで話してくれるニッポンの社長に、やっぱり俺は夢を見てしまう。

 

※「徳井健太の菩薩目線」は毎月10・20・30日の更新です

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