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ヤングケアラーだったあの頃。周りに頼れず、「無理」と言えなかった理由がわかった。〈徳井健太の菩薩目線 第155回〉

2022.12.20 Vol.web Oiginal

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第155回目は、自身のヤングケアラーとしての過去について、独自の梵鐘を鳴らす――。

「僕、ヤングケアラーだったと思います。当時はそんな言葉なかったけど」

『敗北からの芸人論』を発売した際、自分の過去を振り返る機会があった。その話はBuzzFeedで記事になり、それからというもの、ヤングケアラーについて話をする機会が増えた。

 先日も対談をした。お相手は、水谷緑さん。精神科医療分野の取材を重ねている方で、ヤングケアラーについてのマンガを描かれている漫画家さんでもある。対談記事が公開される際は、徳井健太のTwitterなどでお伝えしたいと思う。

 水谷さんのマンガ『私だけ年を取っているみたいだ。 ヤングケアラーの再生』を見て驚いた。統合失調症の母を筆頭に、俺が通ってきた当時の道とほとんど一緒。主人公が抱く感覚にも既視感がある。特に、自分の感情を殺した――という感覚。

 高校生だったころ、クラスメイトに「徳井君って、何をやっても怒らないよね?」と聞かれたことがあった。「そうだね」と答えた俺に、クラスメイトは「何をやったら怒るの?」と質問を続けた。

「家が放火されて、大笑いされたら怒るかな」

 我ながらどうかしていると思った。放火されても怒らないんだもの。なぜか放火は許容範囲。その上で「大笑いされたら」、ようやく怒るらしい。あの時代、とことん感情を殺していた自分がいたんだなと、懐かしさが込み上げてきた。

 どういうわけか俺は、何かをやりながら何かをすることが好きだ。たとえば、料理をしながらテレビを見つつ、何かをぼんやり考える。そんなマルチタスクを抱えているときに、幸福感ややりがいを感じる。なんでだろうと思っていた。でも、その理由がわかった。

 ヤングケアラーは、家事をして、親の面倒を見て……結果的にマルチタスクをしている。だから、「そういうふうになりがち」なんだそうだ。さらには、「人に頼れない」。まったくその通りで、俺も人に頼ることが苦手だ。すべてを自分一人で抱え込んできたから、どう頼っていいのかわからない。そして、パンクする。勝手に抱えて、勝手に爆発する。

 本当は「無理です」と伝えればいい。だけど、「無理」と伝えることは、即死を意味する。唯一家庭の中でまともな人が匙を投げたら、すべてが崩壊してしまう。マンガを読んでいると、母親の面倒を見ながら、妹の世話もして、自分のことだってやらなきゃいけない――。あの頃の自分がフラッシュバックした。これって“ヤングケアラーあるある”だったんだって。

 そんな話を、菩薩目線担当編集A氏に話すと、「『(株)世界衝撃映像社』でむちゃくちゃなことを平気でできたのは、そういうことだったのかもしれないですね」と言われた。

 たしかに「無理」なんて選択肢はなくて、抱え込んでダイブするしかなかった。できませんと謝るくらいだったら飛んだほうがいい。傍から見れば、理解できないことだったかもしれないし、自分でもなんで飛びたがるのかわからなかったけど、今ようやく、自分でもあの頃の行動が理解できるようになった。ヤングケアラーだったときの行動や思考が、ずっと癖になっていたんだと思う。

 あのままいけば、きっと犯罪者になっていた。今はずいぶんと変わることができた気がする。救ってくれたのは、お笑いであり、お笑いの世界。まったく結果を残せていないときでも、誰かが見ていてくれて、一緒に酒を飲んでくれた。伸び悩んでいて脱線しそうなときでも、面白い先輩がダメ出ししてくれたり、励ましてくれたりする。感情を反芻して、自分に伝えてくれた人たちがたくさんいたから、ようやく自分でも感情が飲み込めるようになっていったんだと思う。

 さらけ出している人が多い世界で良かった。ヤングケアラーの話だって、普通であればなかなかオープンにできないことだよね。でも、さらけ出すのがお笑いだ。さらけ出すから、単なる思い出話が意味を持ち始めるのだと思う。

 

※徳井健太の菩薩目線は、毎月10・20・30日に更新

特別な夜に期待しちゃいけない。旅はいつだって、あるがままだ。〈徳井健太の菩薩目線 第154回〉

2022.12.10 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第154回目は北九州市小倉の夜について、独自の梵鐘を鳴らす――。


 私事で北九州は小倉へ行った。

 夕食を終えた23時過ぎ、アーケード街を歩いていると、50~60代とおぼしきおじさんがギターをかき鳴らしながら歌っていた。あたりには誰もいなくて、お世辞にも「にぎやか」という言葉とはほど遠かった。

 新宿駅南口辺りに行くと、最近は多くのストリートミュージシャンがいる。その周りにはそれなりに聴衆がいて、街の喧騒もあいまって、熱を帯びている 。だけど、おじさんは俺に発見されるのを待っていたかのように、一人ぼっちで歌っていた。冬が迫っていることを告げる、冷たい風を感じる夜だった。

 その風貌からは、おそらく吉田拓郎や長渕剛が好きなんだろうなということが予想できた。正直な話、俺はフォークをはじめとしたこの手のジャンルに詳しくないし、わからない。でも、ポツンとたった一人でギターを弾くおじさんに、なぜだか心がときめいて、足を止めた。

 お客さんは我々だけ。おじさんは、会釈をしながら「旅行ですか?」なんて調子で、簡単な挨拶を投げ込んできた。俺は返すボールで、「どんな歌を歌ってるんですか?」と聞くと、おじさんは期待を裏切らない「吉田拓郎や長渕剛が好きです」というドンピシャの答えを投げ返してきた。

 俺は、「拓郎さんとか長渕さんの曲をあまり知らないので、『これがいい曲だよ』みたいなおすすめの曲を聞かせてください」と、お金をギターケースに入れてお願いした。するとおじさんは、「う~ん、いい曲か~わからないなぁ」と口ごもり始めてしまった。

「なんだろう……なんでもいいから曲名を言ってもらわないと歌えないなぁ」(おじさん)

 拓郎さんの曲はわからないし、長渕さんも「とんぼ」や「乾杯」くらいしかわからない。せっかく小倉のアーケード街で、たった一人で歌っているサバイバーかもしれないおじさんに出会えたんだから、この人から自分の知らない曲を教えてもらいたかった。だから俺は、「今の時代に作れないだろう、その当時の時代感がつまっているだろう曲、もしくはコンプラとか関係なかったあの頃しか作れないような曲、そういう曲をお願いします」と、わがままを言わせてもらった。何を歌ってくれるんだろう。きっと、こんな夜にぴったりの曲を歌ってくれるんだろうな。でも――。

「それはどういうこと?  どんな曲?」

 そうおじさんは平然と聞いてきた。たとえば寿司屋の大将に、「おまかせでお願いします」と伝えたとして、「ネタを指定してくれないと握れないよ」なんて返答されることはない。「この時期は何の魚が旬なんですか? 旬の味を感じたいので、大将のおすすめの一品をお願いします」とオーダーして、「それはどういうこと? どんな魚?」と聞かれたら、俺たちはどんな顔をするだろう。

 おじさんは、数分後、「とんぼ」を歌っていた。

 特別な夜なんて期待しちゃいけない。驚くほどにスイングしない出会いだってある。でも、愚直でもいいから真っ直ぐな魂をぶつけてほしかった。不味くても目の前に出してほしかった。それなのに、添えられ、置きにいかれるのは、悲しいじゃないか。

 自信たっぷりと激情的に歌い上げる「とんぼ」を聞き終わり、とぼとぼと歩いていると、何とも言えない寂しさに包まれた。ただただカメラが回っていない、「一人月曜から夜更かし」のようなことをしてしまった夜。もしかして、これがフォークなのかな。

 後日、『チャチャタウン小倉』という、地元民憩いの商業施設へ行く機会があった。映画館やゲームセンター、観覧車などが併設されていて、おそらく北九州の人たちにとっては、「たくさんの思い出があるんだろうな」と想像できる、子どもの頃の夢の集積地みたいな場所。あのおじさんだって、一つや二つ、ここに思い出が眠っているに違いない。

 何やらイベントが行われているようで、老若男女がびっしり100人くらい目を輝かせていた。何が行われているんだろうとステージを見ると、たった一人のベーシストが、ヴオンヴオンと弦をうならせながら即興演奏を行っていた。じいちゃんもばあちゃんも、何がすごいのかよくわかっていない顔をしていたけど、それ以上に楽しそうな顔をしていた。たった一人のベーシストが、『チャチャタウン小倉』をわかせていた。

 ここには熱いパッションが広がっている。安心した俺は、小倉を後にした。

 

 

※徳井健太の菩薩目線は、毎月10・20・30日に更新予定です。

「第10回腐り芸人セラピー」。“世界の悟り”矢作さんから学んだこと。〈徳井健太の菩薩目線 第153回〉

2022.11.30 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第153回目は、感謝について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 コンビ間は、複雑怪奇。

 11月19日に放送された「第10回腐り芸人セラピー」(『ゴッドタン』)を経て、あらためてそんなことを思う。腐り芸人もついに10回。まさか岩井(勇気)が、フジテレビのお昼の顔になる日が来るなんて、月日の流れを否応なしに感じます。

(※来年1月からハライチは、フジテレビ平日昼の情報番組『ぽかぽか』のMCを担当することが決定)

 今回は、ティモンディの前田裕太とわらふぢなるお(ふぢわら・口笛なるお)が「腐り芸人セラピー」を受診。高岸(宏行)が活躍することで頭を悩ませているという前田の吐露は、多くのコンビが通る道かもしれない。

 「コンビ間格差」、「じゃないほう芸人」なんて言葉があるように、コンビやトリオの中で一人だけが目立ち活躍の場が増えることは、今では珍しいことではなくなった。澤部(佑)だけが目立っていたハライチもそうだし、吉村(崇)だけがバラエティに呼ばれていた、俺たち平成ノブシコブシもそう。

  コンビなんだから喜ばしいことのはず……なのに、釈然としない。悶々とするうちに、岩井(勇気)も俺もダークサイドへ堕ち、「腐り芸人」になっていた。前田もまた、同じように悩みを抱えているのだろう。

  収録中、俺が勝手に“世界の悟り”だと思っている矢作(兼)さんが、こんなことを話すシーンがあった。

  矢作さん曰く、小木さんの態度が悪いから、自分(矢作さん)に単独でCMのオファーが届くという。でも、矢作さんは自分のことを決して態度が良い人間だなんて思っていないそうだ。だったら、なぜ矢作さんにオファーが来るのか?

 「小木の態度が悪いから、横にいる普通の態度の俺が“良い人”に見えるだけなの。俺にCMのオファーが来るのは、小木のおかげなんだよ」

  そう説明していた。もう説法。仏様の考え方。

  片方が目立ってしまうことで、自分は置いてけぼりになっているんじゃないかという焦りが生まれるかもしれない。だけど、それは個性の違いにしか過ぎないわけで、違う考え方や違う人たちがいるから自分の価値が生まれたり、浮かび上がったりすることだってある。矢作さんみたいな考え方の人ばかりだったら、世の中から戦争はなくなるのに。

  矢作大師の説法は、これだけではない。

  わらふぢなるおの悩みは、「もうネタを作りたくない」というものだった。賞レースで結果を残している彼らの実力を疑う人はいないはず。テレビに出るためにネタを作り続けているものの、売り切れていないことに、内心穏やかじゃない。売れるために、また新たなネタを作る。だけど、過去のネタを越えるような面白いネタを作ること、あるいは作れるだろうと期待されることに疲れているという。ふぢわらは、(すでに作った)ベストのネタを超えることができないとこぼしていた。

  そんな二人を見て、矢作さんは、「今日の面白いは、明日の面白くないかもしれないでしょ。自分たちのネタは、自分たちが面白いと思ったからやっていただけだったけどなぁ」と、さらりと言う。誰かの期待なんてどうでも良くて、自分たちが面白いと思ったものをやれるだけで楽しい――。なんて素敵な考え方なんだろう。矢作さんがあと10人いれば、この世から争いはなくなるに決まっている。

  月並みな考えだろうけど、「感謝する」って気持ちはとても大事なことだよね。妬んでもいいし、さらけ出してもいい。でも、それ以上に感謝の気持ちがある、感謝できる環境があるから、物事は想像している以上にうまくいくのかもしれない。感謝こそ腐りの処方箋。“世界の悟り”矢作さんから学ぶことは多い。 

 

※徳井健太の菩薩目線は、毎月10・20・30日更新です

『ブラマヨ弾話室』で考えた、自分の意見をぶつけてみることの面白さ〈徳井健太の菩薩目線第152回〉

2022.11.20 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第152回目は、『ブラマヨ弾話室〜ニッポン、どうかしてるぜ!』について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 BSフジで放送中の『ブラマヨ弾話室~ニッポン、どうかしてるぜ!』に、初めて出させていただいた。

 ブラマヨさんのお二人と仕事をする機会はあまりないから、とても楽しみにしていた半面、緊張していた。なんといっても、ブラマヨさんだ。とりわけ吉田さんの舌鋒の鋭さに、自分は対応できるんだろうかドキドキハラハラ。

 この番組は、ブラマヨさんが政治家や学者など様々なジャンルの専門家を招き、「今起きている問題」をテーマに「今後のニッポンはどうなっていくのか」を、独自の“心配性”な目線から考察する雑談系アカデミックバラエティだ。

 よぎった疑問を、政治家や専門家に対してすぐさまぶつけていく。平成の時代まで当たり前のようにあった討論番組も、よくよく考えると、今では絶滅危惧種かもしれない。

「間違ったっていいから、それが偏った論だとしても言ってもいいんだぞ」。そんな雰囲気をブラマヨさんから感じたので、精一杯、沸いた疑問や意見をぶつけてみたつもり。

 ブラマヨさんはいつだって面白い。でも、『ブラマヨ弾話室』のブラマヨさんは、ここでしか見れない面白さがあると思う。

 吉田さんが意見して、小杉さんが突っ込む――というのが多くの人が想像しているブラマヨさんの姿だと思う。ところがこの番組では、小杉さんがボケて吉田さんがツッコむこともあれば、瞬時にその関係性が逆転する。立ち回りの豊富さとスピード感。漫才やバラエティで見るブラマヨさんとは異なる予測不能な面白さは、自由という言葉がぴったりだ。あまりに自由に振る舞うものだから、私徳井健太も心地よくなって、偏った意見をたくさん話してしまったような気がする。

 この日の収録のテーマは、「幼児の事故が多発していて心配」「政府が政策の反省をしているのか心配」「出世したがらない若者が多くて心配」「老後が不安になるように誘導されていそうで心配」「インボイス制度が全然わからなくて心配」「命を救う仕事をする人に過剰に求める風潮が心配」などなど。

 多岐に及んだテーマを、ブラマヨさんがしゃべり倒す。もう面白い。私徳井健太が登場する回は、11月20日(再放送は12月4日)と、11月27日(再放送は12月11日)。放送時間は、22:30~23:00なので、ぜひご覧いただけたら幸いであります。

 収録のゲストには、参議院議員で防衛大臣政務官の小野田紀美さんが参加した。小野田さんは、とてもわかりやすく説明してくれるので、あれもこれも聞いてしまった。「え? そんなことまで答えてくれるんですか!?」ってことまで答えてくれたので、ホントに攻める番組だなと感心してしまった。

 社会問題や政治問題を取り扱って議論するトークバラエティって、一筋縄ではいかない。難しい。

 たとえば、「多発する幼児事故」というテーマ。日本の場合、子どもをあずけたら、あずけた人(ベビーシッターなど)に責任が置かれるけど、欧米ではあずけようがすべての責任は親にあるという。責任の所在が違う――。そうした多面的な視点を大切にしないと、豊かな議論は育まれない。  

 その中で「持論」の意味を考えた。

 ラジオで相方である吉村と話していたとき、俺が「売れるためだったら死んでもいい」 とか、「長生きしたいなら売れなくてもいい」みたいなことを口にしたときがあった。

 吉村は、「いやいや、人間って 二択で生きているわけじゃないでしょ」と制すんだけど、俺は二択で生きてきたところがあるから、その吉村の補説がよくわからない。やるか・やらないか。もしもやるって決めたのなら、死んでもやるか・死なないでやるか――しかないと思うのだけれど。

 ギャンブルが好きなのも、こうした考え方によるところが大きいから、張って負けたら恨みっこなし、だと思っている。でも、世の中の多くの人は、張って負けると恨みつらみを言ってしまう。それは都合がいいんじゃないかと思うけど、吉村に言わせると、どうやら「極論」ということになるらしい。

 誰かの持論は、他の誰かにとっては極論になることもある。揺れ動くのが人間だから、吉村の言うこともたしかにわかる。あまりに自分の意見は、味わいがないなぁと思う。一方で、持論を極論と言われると、なんだか釈然としない。

 そんな俺が、『ブラマヨ弾話室』の吉田さんの持論を聞くと、「吉田さん、すげぇ極論言うな」と笑いながら感心してしまうのだから、人間の「論」って面白い。気兼ねなく自分が思っていることを話せる場って自由。持論も至論も極論も交わせるのだから、あったほうがいい。そんな場が、『ブラマヨ弾話室』だったんだなぁ。

 収録後、「もっと話せたんじゃないか」と反省したのは言うまでもないよね。

世の皆さま、お願いだからドレスコーズの素晴らしさに気が付いて〈徳井健太の菩薩目線 第150回〉

2022.10.30 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第150回目は、日本のロックバンド「ドレスコーズ」について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 どういうわけか、わたくしのYouTubeチャンネル『徳井の考察』で、ミュージシャンについて話をすると、皆さん好反応を示してくださる。

 THE YELLOW MONKEY、eastern youth――。元々、音楽をやるか、お笑いをやるかで迷っていた10代。NSCに入ったものの、もしあのままギターを弾いていたらどうなっていたんだろう、なんて思うときがある。

 だからなのか、『徳井の考察』でミュージシャンに触れるとき、淡い10代の記憶を思い出すこともあって、熱っぽく語ってしまうのかもしれない。お笑いも音楽も大好きだけど、音楽には音楽の不思議な力がある気がする。

 芸人のライブを見た、DVDを買ったからといって、そのときの思い出が全体的に浮かび上がるなんてことはないかもしれない。でも、ミュージシャンのライブを見た、 CDを買ったときって、そのときの自分の環境だったり、出来事がぶわっと浮かび上がってくる。初めて買ったCDを覚えている人は多くても、初めて笑った芸人のテレビ番組を覚えている人は、あまりいないよねって。

 それだけ思い入れが強い存在。『徳井の考察』で、音楽のウケが良いのもわかるような。

 あるとき、ドレスコーズについてお話をさせていただいた。

 ドレスコーズは、もともと毛皮のマリーズのボーカルだった志磨遼平さんを中心に結成された4人組ロックバンド。その後、志磨さんのソロプロジェクトとなる。志磨遼平=ドレスコーズなので、西川貴教さんとT.M.Revolutionの関係に近いかもしれない。

 どうしても世の中に知ってほしい歌詞がある。音楽がある。もっと知られなきゃおかしい。そんな気持ちから、『徳井の考察』でいかに志磨遼平が作り出す音楽(特に歌詞)が素晴らしいかを熱弁させていただいた。感極まって、泣きながら。

 たとえば、『人間ビデオ』。世界最強に良い曲だ。劇場アニメ『GANTZ:O』の主題歌になった曲だから知っている人もいると思う。でも、世の中の認知が足りない。もっともっと話題になっていい。そう思わないとやってられないくらい素晴らしい歌。

 俺は、志磨さんに会ったことはない。話したことすらない。だけど、彼が作った音楽の素晴らしさを、勝手に褒めちぎりたかった。もうイタいファンのYouTube配信。

 きっとやっちゃいけないことだと思ったけど、どうしても伝えたくて、彼が紡いだ歌詞を勝手に読み上げた。自分のYouTubeチャンネルで、会ったこともないミュージシャンの歌詞を読み上げ、挙句の果てに歌詞の背景を推察して、涙する。怖い人だと思われていなければいいんだけど。

 その模様は、『絶対聴くべき名曲たち【ドレスコーズ】【毛皮のマリーズ】』

からご覧いただければ。何度見ても、情緒がどうかしちゃっている。

 

 なのに、後日キングレコードから連絡が届いた。なんでも、ドレスコーズの最新アルバム『戀愛大全』がリリースされるので、志磨さんの歌詞の中からパンチラインだと思われるものを選んでくれないか――というオファーだった。そんなことが起こるんだ。これだから音楽って最高だ。純粋にうれしかった。

  ドレスコーズ、毛皮のマリーズの恋愛ソング、あるいは志磨さんが提供したラブソングの中から“志磨しか勝たん”と思うフレーズを募る「#ラブソング志磨しか勝たんパンチライン」。バイきんぐ小峠さんなども参加するその企画内で、僭越ながらパンチラインとプレイリスト、そしてコメントを寄稿させていただいた。

  あらためて歌詞を眺めていると、やっぱり志磨遼平は天才だと思った。5~10曲選んでくださいと言われたけど、絞り切れなかったから当然のように上限の10曲フルフルで選ぶ。どれを選ぶか、迷いに迷って、コメントも書いては消して、書いては消して。

  なんといっても会ったことがない。もうこちらからの一方的な手紙。そんな気持ちで渡したメッセージ。キモイと思われていなければいいなぁ。

「手間」を「愛」だと考えてみると、品のあるなしは、愛でうめてみませんか?〈徳井健太の菩薩目線 第149回〉

2022.10.20 Vol.Web Original


“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第149回目は、品と愛について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 自分で言うことではないけど、品があまりない人間だと思う。よくよく思えば、この歳になるまで品というものを真剣に考えてこなかったような気がする。まぁ、あってもなくても別にいいじゃないのって。

 最近、ニュースなんかを眺めていると、「別にそれでもいいんじゃないか」って思うことに対して、世間一般は「品がない」とか「独りよがり」なんて反応をしていることが少なくない。そんな世間のアレルギーを見ると、間接的に自分も「品がない」と言われているような気がして悩ましい。

 歯医者や美容室のイスは上下に動く。高さを調節するために必要な構造なんだろうけど、前々からムダなことだと感じていた。 高くなったところで、歯の治療が早まるわけじゃない。ほんのちょっとの調整。そんなもん必要なのか……なんて考える俺を無視して、いつも高さは調節される。

 ついこの前も、「早く治療してくれないかなー」と思っていた。はっとした。自分は何て品のないことを考えているんだろうって。

 包装紙もそうだ。きちんと包装紙をたたんで保管している人を見ると、なんでわざわざそんなことをするんだろうと思っていた。その包装紙をいつ使うんだろう。使わないのに、きれいに折りたたんでいるのであれば、そんなにムダなことってないんじゃないか。使わないなら、がさっと破いても問題ないよね……、あ、これも品のない考え方。ちょっと前なら気にしなかったのに、ここ最近はそんな些細なことに対して、自分の品のない考え方に疑問を持つようになってしまった。

 無機質に手渡された贈答品よりも、包装紙に包まれた贈答品を手渡された方がうれしいと考える人の方が圧倒的に多いと思う。でも、俺は無機質に渡されたとして、何も嫌な気がしない。タクシーに乗るとき、わざわざ運転手さんがドアを開けてくれるのも、無駄なことのように見えてしまう。それをしてもらったところで運賃が安くなるわけでも、目的地に早く着くわけでもない。合理的に考えれば考えるほど、品とはかけ離れていくことに気が付いたとき、「いい大人なんだから」と、自分を戒めることも必要なんじゃないかと思い始めてしまったのだ。このままじゃ、心が貧乏なおじいさんになってしまうよなぁ。 

 だけど、人間の性格というのはなかなか変わらない。ことあるごとに合理的に考えてしまいがちな自分を、どうすれば「品のある」人間にできるんだろうか。

 難しい。

 少しイスを高くするとか、包装紙で包むとか、ドアを開けるとか、そうした行為は、いつもより手間をかけるアクション。この手間をかけるって視点が、ミソなのではないかと考えてみたい。

 俺は、わざわざラッピング代を出してまで包装紙で包むなんてことはしない。でも、料理をする身からすれば(私、徳井健太は結構料理が好きなので)、手間をかけるという行為は大事だと思う。

 たとえば、下処理をしないと考える人がいたとき、「いやいや、面倒かもしれないけど下処理はしようぜ」とつっこんでしまうし、実際問題として、下処理をしてから料理に取り掛かった方が圧倒的に完成度は高くなる。それに、がんばって作った料理を、一口も食べずに「好きだから」という理由だけで七味唐辛子をかけられたら、俺だったらムッとするに違いない。

 包装紙をビリビリと破いてしまうのは、せっかく作った料理にドバドバと七味唐辛子を振りかける行為と同じかもしれない。あ~これからは、「そんなことする必要ないのに」じゃなくて、「ありがとう。ナイス一手間」と心の中で唱えてみようじゃないか。 

 世の中にはいろいろな「一手間」がある。 それを「愛(情)」だと解釈してみると、すっと喉元をすぎるような気がしてきた。大好きなラーメンだって、どれだけ手間がかかっているか。「そんな作り方は合理的じゃない」なんて批判されたら、二度とラーメンを食うなとか何とか言ってしまいそう。

「これは理解できる」けど「あれは理解できない」。人の好き嫌いの境界線は、あやふやだ。自分で品がないと言っておきながら、カレーライスをぐちゃぐちゃに混ぜて食べる人を見ると、「品がない」と思ってしまう。結局、人間なんて自分勝手な生き物だから、自分の尺度で何事も測りがち。「俺はこういう人間だから」と割り切るのは簡単だけど、どんどん歳を重ねていく中で、そんな割り切り方って、ちょっと雑だよね、やっぱり。

だからこれからは、「手間」がかかっているものを見たときは、「愛」だと思って見てみようと思う。そこに愛を感じたら、その分だけ自分も愛を示す。それが「品」へと様変わり。品を埋められるものは、愛なのかもしれないね。

 

鶴瓶師匠の熱湯風呂に見た、飼い犬じゃなくオオカミになることの大切さ〈徳井健太の菩薩目線 第148回〉

2022.10.10 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第148回目は、『FNSラフ&ミュージック2022~歌と笑いの祭典~』の一幕について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 2夜連続で放送された『FNSラフ&ミュージック2022~歌と笑いの祭典~』。出演者は、ダウンタウン・松本さん、中居正広さん、ナインティナインさんなどなど錚々たる顔ぶれ。まさに祭典だ。

 その中で、熱湯風呂に挑戦するというコーナーがあった。当然、ダチョウ倶楽部さんが登場する。いろいろなことが頭によぎる、バラエティの本気。

 誰が熱湯風呂に入るのか――。白羽の矢が立ったのは、笑福亭鶴瓶師匠だった。なぜかお腹にはサランラップが巻かれていた。ダイエットのためらしい。やっぱりお笑いのスターは“持っている”。

 鶴瓶師匠といえば、2003年の『27時間テレビ』生放送で、ポロリをしたことが思い出される。そうした過去を持つ師匠が、熱湯風呂に挑む。そして、あれよあれよと、どんどん服を脱がされていく。周りの芸人たちは、「隠せ、隠せ」「危ないから、この人は」なんてはやし立てる。

 でも、なんだろう。そうガヤを入れる芸人たちから放たれる、「この人は、ある一線を越えるとホントにやっちゃうから」という危機感と緊張感がごちゃまぜになったような雰囲気。江頭2:50さんにも通ずる“ホントに何をしでかすかわからない感”。いつ調和が崩れてもおかしくない芸人たちの連係プレーと、鶴瓶師匠の一挙手一投足にヒリヒリ、ハラハラ。芸人だったら、こうありたいなとあこがれた。

「どうせ局部は出さないんだろ」と思った人は多かったと思う。でも、そんな“ごっこ”的な空気や、周りにただただ担がれているだけの状況にプチンと何かが切れてしまい、ホントに暴走する――。そういう雰囲気を持っている芸人が、たしかにいる。今回の鶴瓶師匠もそう。

 言うことを聞く飼い犬じゃなくて、本質はオオカミなんだなって思わせる芸人。噛むんじゃなくて、「噛むんだろうな」と思わせる芸人。この違いが「妙」だと思う。毎回噛むと、それは単に使いづらい演者だと思われる。だから、「噛むんだろうな」。それがあることが望ましいのだと、サランラップ姿の鶴瓶師匠を見て学ばせていただいた。

 ある意味では、それはどこに地雷が埋まっているかわからない怖さにも似ているかもしれない。あきらかに、「このテーマに触れたらダメだろうな」という人って、怖いけど不気味ではない。でも、どこに地雷が埋まっているかわからない人って、なにより不気味な怖さがある。それもまた、「噛むんだろうな」という雰囲気を持っているからこそ可能にしているのだと思う。

 その雰囲気を、一般社会で不特定多数の人に向けるのはリスキーだ。同じ部署にいる同僚が、そんなただならぬ雰囲気を発していようものなら、多分、浮いてしまう(それでもかまわないという人はそれでいいんだろうけど)。

 一方で、俺たちのような芸人の世界やメディアの世界、個人事業主の世界においては、「飼い犬」にならない雰囲気……とりわけ“対同業者”に対しては大事なんじゃなのかと思う。舐められ続けると足元を見られ、雑に扱われてしまう。でも、それって決してお金の話じゃなくて、態度や雰囲気としてのオオカミらしさ。

 たとえば、グルメリポートをするとして、この人をキャスティングしたら「平気でマズい」とか言いそう……だけどそれ以上に、面白いものができあがる。そんな風に思ってもらえたら、その芸人、そのタレントは、鎖を断ち切って自立した「ヤバさ」のスキルがあるってことなんだろうなぁ。

 もしかしたら噛まれるかもしれない。だけど使いたい、一緒に仕事をしたい――そう思ってもらうには、一にも二にも「実力」がなきゃいけない。結果を残せる「強さ」がないと話にならない。だから、オオカミなんだろうなと思う。自分にはそうした強さがあるのだろうかと自問自答する。

 目の前に料理が運ばれて、その一皿がマズかったとしても、「マズい」なんてなかなか言えないよね。キッチンの向こう側では一生懸命作ってくれた人がいるだろうし。そういう想像力を忘れないようにしながら、オオカミの群れを目指していきたい。

 

※「徳井健太の菩薩目線」は毎月10・20・30日に更新します

「ソウドリ解体新笑」で明かされた、演者とスタッフの魂が乗り移ったくりぃむしちゅーさんの番組〈徳井健太の菩薩目線 第147回〉

2022.09.30 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第147回目は、「ソウドリ解体新笑」について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 くりぃむしちゅー有田(哲平)さんがMCを務める『賞金奪い合いネタバトル ソウドリ~SOUDORI~』。その中で、今年4月から「ソウドリ解体新笑」というコーナーを定期的にやらせていただいている。

 毎回、今まで明かされていない有田さんのお笑い年表を開いたり、有田さんの転機を窺えたり、ソウドリウォッチャーの私、徳井健太は恍惚の連続であります。ありがとうございます。

 8月末に放送された「ソウドリ解体新笑」も、とても熱くて、まぶしかった。くりぃむしちゅーのお二人が、どのようにして冠番組を手にしていったのか……その裏側を有田さんが明かしてくれたのだ。

 お二人にとって初となる冠番組は、『くりぃむナントカ』だったという。くりぃむさんは早くして売れたというイメージがあった。だから、2004年まで冠番組がないというのは、少し意外だった。

 転機となったのは『虎の門』。そこで出会ったのが、その後、『くりぃむナントカ』を立ち上げる藤井智久プロデューサー(当時)だ。 

 意気投合したくりぃむさんと藤井さんは、特番の冠番組『生くりぃむ』という生放送番組を仕掛ける。ところが、放送前日までくりぃむさんは、『ぷらちなロンドンブーツ』のロケでイタリアにいたらしく、最悪の事態に巻き込まれる。飛行機が欠航し、初めての特番、しかも生放送という大舞台を欠席することになってしまったのだ。想像するだけで、悲しいし悔しいし怖ろしい。

 あくまでイレギュラーなトラブル。くりぃむさんに非はない。しかも、同じテレビ朝日の『ぷらちなロンドンブーツ』のロケによるまさかの事態。「もう一回何かやりましょう」、そうテレ朝サイドから声を掛けられたそうだ。

 このチャンスに、くりぃむさんは、恩人である明石家さんまさんと一緒に何かできたらと提案したという。だけど、さんまさんは色々あってテレ朝には行けない。でも、「くりぃむしちゅーとは出たい」。そこでさんまさんは、MBSでやっているラジオにくりぃむさんを呼んでトークをし、その模様をテレ朝で流すというウルトラCを敢行した――。全員、愛。愛がなければ、できっこない。

 結果を出したくりぃむさんは、2004年に『くりぃむナントカ』を始めることになる。だけど、これで終わりじゃない。このお話は、大河ドラマだ。

 同番組は、「芸能界ビンカン選手権」や「長渕ファン王決定戦」など数々の名企画を生んだ名バラエティだ。当然、視聴率もファンも獲得した。となると、期待してしまう。4年後、『くりぃむナントカ』は、水曜19時台のゴールデン帯へ昇格することになる。

 ところがその当時、裏番組には絶対王者がいた。ヘキサゴン。お化け番組の壁は高く、返り討ちに遭った『くりぃむナントカ』は、半年で打ち切りになってしまった。

 藤井さんは、「判断ミスだった」とくりぃむさんに謝ってきたという。その席で藤井さんは、もう一回仕事をしたい、ゴールデンでくりぃむさんと仕事がしたいと伝えた。ちゃんと視聴率が獲れて面白い番組をゴールデンで作るから。それが当たれば、また深夜でお笑いに特化した番組ができるから、少しの間、我慢してくれ――。

『シルシルミシル』はこうして誕生したと、有田さんは笑って教えてくれた。その後、くりぃむさんは深夜帯で『ソフトくりぃむ』を開始する。背筋がゾクゾクした。

『ソフトくりぃむ』は、俺たち平成ノブシコブシが『ピカルの定理』に出ていた頃だったから、よく出演させてもらった番組の一つでもあった。当時の俺は、実力がないながらもできる限りのことはやっていたつもりだった。

 でも、有田さんから語られる大河を知って、くりぃむしちゅーさんと藤井さんの魂が乗り移った番組だったんだと、今さらながら理解した。「できる限りのことはやっていたつもりだった」は、言い訳だ。あのとき、もっと頑張れたんじゃないかと、有田さんの話を聞いて後悔した。『ソフトくりぃむ』は、まるで独立を勝ち取った小国が、 “列強何するものぞ”の精神で、死ぬ気でやっていた番組だったんだ。振り返ると、ヒリヒリした現場だったのには、道理があったんだ。

 深夜に生まれたくりぃむさんの冠番組は、いまは『くりぃむナンタラ』となり、今年4月からは毎週日曜日の21時55分から1時間番組になった。ゴールデン・プライムタイムに、巡り巡って舞い戻ってきた。

 テレビ番組は、演者とスタッフの魂によって生まれるものがある。俺が言うことじゃないだろうけど、ゲストとして登場する出演者は、その気持ちをちゃんと想わないといけない。有田さんの話を聞いた今、いっそうその気持ちを持って、皆さんの番組にお邪魔したいと、私、徳井健太は思っています。

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